この世で三番目に嫌《き・り》いなものは何かと訊《・さ》かれたら、迷わず『人間』と即答《†で.\ナー、り》する。  遥《はる》かなる比日から、『彼』は人間が大嫌いだった。          鳶亀甲串  その子供を見つけたのは、ほんの偶然《ぐうぜん》だった。  生まれ落ちた次の|瞬間《しゅんかん》には、母親はぶつぶつと愚痴《ノ、ち》をこぼし、赤子に乳をやるのを渋《しバ》った。  父や兄たちも、未熟児のような赤子を見て『役に立ちそうもない』と嫌《いや》な顔をした。  その年の実りがあと|僅《わず》かでも少なかったら、その赤子はひとしずくの水さえ与《あた》えられることなく、寝返《ねがえ》り一つ知らぬまま総《くげ》り殺されていただろう。  だが、そのほうが幸せだったかもしれない。  生まれたときから誰《だれ》にも必要とされず、ただぶたれ、罵《ののし》られ、犬のように腐肉《もこく》を投げ与えられれば上々で、時たま悪意の捌《ー.》け口として引きずり出されるだけの子供。  四年も生きながらえたことのほうが|奇跡《き せき》だった。  そして、まるで弦《げん》が弾《はじ》け飛ぶように、すべてはまたあの夜に、唐突《とうと 「》に終わった。深い深い闇《やみ》と、濃《こ》い−血の臭《にお》い。  誤って子供でなく姉の首をカッ|斬《き》って噴《——わ》き出した血に、家族の節《たが》は簡単に弾け飛んだ。  父親は狂《lくる》ったように笑いながら見境なく錠を振《なた・い》り回しはじめ、母親と男兄弟がそれに続いた。  めいめい刃物《はもの》をとった彼らに、姉たちはわけがわからないまま次々と惨殺《で」人さつ》された。  三日月のさやけき光など、到底《とうてい》とどくべくもない深淵《しんえん》。  見ていた自分は心の底から笑い出したくなったものだ。  救いようがないのは、こんなのは決して|珍《めずら》しい事態ではないということ。                                                                                                                                                                            ヽ′  ノ  どこまでもどこまでも、人間というのはー口旦まったく、囁《一く.−》うしかない。  ……静まり返った死の家から、やがてずるずると何かが這《ま》いだしてきた。  すべてのきっかけとなった子供は、割《さ》かれた腹をおさえて、泣いていた。嘲笑《あぎわら》うような三日月を見上げたその双畔《そ・! ぱう》に、何を映していたのかー最期《さいご》に、どこへ、行きたいと思ったのか、少しだけ、知りたいような気もした。  そのとき、夜道を歩いてきた誰かが、子供に気づいて駆《か》け寄ってくるのが見えた。 「……なんて、ことだ……!」  たった四年の人生で、何一つつかむことのできなかった子供の手を、その男だけがつかんだ。  《毎》《亘》子供は、朝がくる前に死んだ。  近くの廃寺《はいじ》に子供を運び込み、必死で手当をつづけていた男は、子供が事切れた瞬間、死体  にすがって泣いた。  血の繋《つな》がった肉親が殺して喰《く》おうとし、行きずりの他人が救おうと手を尽《ノ》くして死を悼《いた》む。  すべてが、『彼』にとっては|馬鹿《ばか》馬鹿しい茶番にすぎなかった。  男が子供を助けようとしたのも、その死を嘆《なげ》いたのも、何の関《轟∵乃》わりもない『他人」だからだ。  家族にとって、現実にその子供は殺して喰おうと思うほど重荷だった。ろくな労働力にならないくせに飯は食う。これ以上養えば一家全員飢《う》え死にする。殺して喰えば、食い扶持《ぷら》が浮《う》いて命も繋げる−そんな切迫《せつはJ、》した関係にないからこそ、無責任に救おうと思えただけだ。  もしあの男が家族と同じ立場に立ったなら、|間違《ま ちが》いなく救うどころかとどめを刺《さ》したろう。  それが、『彼』が今まで見てきた、人間というイキモノだった。  息絶えた子供の体から、魂塊《こんはく》がひとつひとつ抜《ぬ》けていく。  天翔《あまか》ける四魂と地に潜《もぐ》る七塊を眺《なが》めているうちに、……ふと、|妙《みょう》な気まぐれがわいた。  久々に、『体』をもとうか。  生まれてから死ぬまで人間の腐臭《ふしゅう》を一身に浴びたこの子供。馬鹿馬鹿しくて、逆にいい。  どれほど人間が愚《おろ》かで醜怪《しゅうかい》なイキモノか、この子供の存在そのものが証《あ人り.し》となる。  皮肉な考えに囁うと、 「彼』は、カラッポになった子供の死体にすべりこんだ。   ー凄《すさ》まじい|衝撃《しょうげき》に脳天が揺《ゆ》さぶられた。 (な……なん�だ!?)  いったい何が起こったのか、俄《にわか》にはわからなかった。  雷雲《らいうん》に突《つ》っ込んだかのようにどリビリと、ありうるはずのない『意識』に巻き込まれる。 『もっと……生《イ》キタイ……もっと−……もっと』  それはあまりにも純粋《じゅんすし、》な、生への渇望《かつぼう》。  死ぬのが怖《二わ》いからではなかった。なぜ生きたいのかも、子供はわかっていなかった。本能のままの、魂切《たよぎ》る絶叫。《げりきょう》それゆえにその願いは余りに強く、原始的で、そして、……停《はかな》かった。 (……この、子供)  たった四年《しレ」打)》の人生。生まれ落ちては忌守れ、最後は喰われるために殺された。幸せの意味さえ知ることなく、絶望だけを掌《ての!?∴一》に、闇に沈《 「て丁》むように死んでいくものと思っていた。けれど、死ぬ最期の瞬間まで子供がただひとつ願ったのは、生きること。  生まれてから死ぬまでロクでもない人生でも。ただの器《うつわ》である肉体に想《おむ》いを残すほどに。  ……二度目の気まぐれを、起こす気になった。 『生きたいか?」  気づけば、離《はな》れゆこうとする最後の魂塊を留《とど》めていた。 『名は?』   月《げつ》、と返ってきた溜息《ためし11き》のような噴《ささや》きに、薄《うす》く笑った。 「……いいだろう。生かしてやる。オレの影《かげ》でもいいならな』  体はすでに『死んで』いる。これ以上肉体的には死にようがない。   これから、子供にとっての 「死hは、この透心識』が消滅《し上でつ・めつ》するときになる。  そのときがいつくるかは『彼』にもわからなかった。明日かもしれないし、十年後かもしれなかった。何せこんな|奇妙《きみょう》な『同居』はしたことがない。とっとと残りの魂塊を『消す』ことはあったが、わざわざ『生かして』やるような酔狂《すいきょう》はこれが初めてだった。 (……四魂は全部翔《か》けて、七塊も残り二晩……せいぜい二十年ってとこか?)   子供の歳《レJし》からすると、最大限保《一も》っても二十四、五歳−。   だが、そこまでは生きられまい。自分と共存するだけで命はどんどん削《けず》られていく。   Hごと命が零《こぼ》れていくのを否応《いやおう》なく思い知りながら、どう生きるのか、見せてもらおう。 (発狂するか殺してくれと叫ぶか1ま、オレの気まぐれが終わるほうが早そうだけどな)   この『命『生かすも殺すもオレ次第《しだい》。  《▼》『これからお前は死ぬまで《ヽヽヽヽ》オレの影−影月《えいげつ》だな。オレは陽月《ようげつ》とでも名乗るとするか』  ′  《▼》皮肉げに噴うと、小さな小さな『影月』のカケラを、l 「臨月』は守るようにくるみこんだ。   嘲笑うような三日月の下。コトン、と影月の心哉《しんこ》が再び音をたてた。          喀帝嗜帝魂  すぐに陽月は妙な気まぐれを起こしたことを|後悔《こうかい》した。まさかあんな年中脳みそタリラリランな福助《フクスケ》男が付属品としてくっついてくることになると知っていたら、絶対助けなかった。  死んだ人間が生き返ったのを目《ま》の当たりにした上で、けろりと拾って持って帰った華眞《わし人》というその薮《やぶ》医者は、陽月の想像を遥かに超《こ》える|馬鹿《ばか》たれだった。 「ああ、君が、影月を助けてくれたという『陽月hですね」  すり鉢《ぱち》で薬草をすっていた堂主《ごうし軸》は、いきなり小刀が自分の鼻先をかすめて|壁《かべ》に突き刺さったときも、ちょっと|驚《おどろ》いた顔をしただけだった。隣《となり》で同じように薬をすっていたはずの拾い子のいきなりの豹変《けようへ人》にも目を丸くしただけで、すぐに|納得《なっとく》したように|微笑《ほほえ》んだ。 「−お前、どこまで阿呆《あはう》なんだ? 影月が一度死んだのを見ていたろうが」 「ええ。だから、生き返ってくれて本当に嬉《うlれ》しかったんですよ」  へらへらっとトンマに笑う。−どうしようもない抜け作《さく》だ。 「ほっ、こうしてる今も、どんどんオレが殺してるけどな。いつでもオレが好きなときに消す。それが契約《けいやく》だ。生かして助けられなかった通りがかりの無能な薮医者のせいでな」  もとよりあの傷の深さではどんな名医でも救命不可能だったが、華眞ほ憫然《しようぜん》とうつむいた。 「……はい。本当にその通りです……。だからこそ、余計嬉しいんです」  華眞ほ|穏《おだ》やかな双膵を、まっすぐ陽月に向けた。影月ではなく、陽月《しバ.人》をはっきりと見た。 「君がいなかったら、私は影月と会えなかった。ありがとう−陽月」  ありがとう? 陽月は耳を疑った。どこまで脳天気で頭が弱いのかこの甘ったれ医者は。 「……話にならん大マヌケだな」   けれど、同じ言葉を、いつかどこかで開いた気がした。  堂主もノータリンだったが、なんと村のじじばば連中も右に同じだった。                                                                                    lJ  陽月を見た女長老などほ 「影月とちょうど《ー》釣り合いがとれる」などとカラカラ笑った。   じじばばたちは陽月でも構わず、やれチビだから牛の乳《ナt′》飲め、頭良くなるからネギ食えなどあれこれ構ってくる。あげくに 「縁《え人》の下に小銭落っことしたぁl。わしじゃとれんから拾ってくんろー」などと頼《た、‥》まれた日には、あまりに色々突き抜けすぎて断る気力も失《.ノ》せ果てた。   堂主は、陽月に何も訊《ヽJ》かなかった。   あの男はバカではない。陽月の言葉の端々《まし′ナし》から、いくつもの真実に気、、ついても。  陽月に向ける|優《やさ》しい瞳《けと,み》は、影月のときと何一つ変わることはなかった。陽月が出れば出るほど影月の命が縮むと知っても、素振《・て.い小》りでさえ陽月を疎《うトこ》んじたことは一度もなかった。   季節は、ゆるやかに、流れた。  ……時折、ふと妙なことを考えたりもした。 『影月』は確実に堂、王より先に死ぬ。影月も堂主も、そのことに気づいている。  取り残される身と知ってなお、情《お》しげなく影月を愛し、かわいがり、たくさんの『幸せ』とやらを指し示し、一片の憐憫《れんげん》も見せずに微笑みだけを注いで傍《そば》にいる堂主。  互《たが》いに永遠ほないと知りながら、残された時を惜しむように分かち、二人で手を繋ぐ。  取り残すほうと、残されるほうと、どちらがよりつらいのかー。  イライラした。                                                                                                                      ・し一   ヽ′   ヽ_ 「どこまでアポだフォレはお前の可愛《・乃一一し》い影月を出てくるたんびに殺してるんだぜ」 「あなたこそ何言ってるんです。私は兄弟のどちらかを品射《!?いき》したりはしません。あなたも影月も可愛い私の子供なんですからね」陽月はあ�ぐりと=を開けた。告寺供っ・ 「だっ! 誰が貴様の子供だバカ野郎! オレが貴様の何倍生きてると思ってやがる!! 」 「まあアレですよ、兄が幼妻をもらったら、年下でも『お義姉《ねえ》さま』と呼ぶ論理です」 「違《ちが》うだろ!!」へらへらと笑う堂主の衣《ころも》の下には、いくつもの青法《あおあぎ》がくっきりと残っている。  助けられなかった患者《かんじゃ》の家族に、半狂乱で襲《は人きよう・∵人おそ》いかかられたのだ。もともとその母親が自称仙《じしようせん》人《にん》やおかしな妖術師《ようじゅつし》の薬を信じて手|遅《おく》れにした。それを棚上《たなあ》げして、最後は刃物《はもの》で襲いかかってきた女を、寸前で陽月が『出hて蹴《ナr》り飛ばさなかったら間違いなく刺し殺されていた。  助けられない患者は追い返せといくら言ってもきかない。そして性懲《し上でつこ》りもなく泣くのだ。   この福助男はまたよく|騙《だま》され、裏切られ、理不尽《り・ホ‥じん》な目に腐《・、き》るほど遭《あ》っていた。   ……この男は知っていた。陽月がどうしようもないと冷ややかに嘲笑《あぎわ・り》ってきた、人間の愚《おろ》かで醜悪な性根《し時∴ノあくしようね》を。そうして何度傷ついても、それでもなお『人』が『好きしだと抜《ぬ》かす。 「……ね、陽月、影月は幼くても、ちゃんと自分の選択《せんたく》をわかっていますよ。欠けてゆく自分の『時』も、交《か》わした契約も。それでも毎日元気なのは、生きることは単なる 「手段』だからです。あの子があなたに生を願ったのは、ただ『幸せになりたかった1‥から、です」  華眞はまるで子供を教え諭《ヽ、.′一》すように陽月に手を差し伸べた。                                                                                                                                                                                           .′ 「命の長さは、重要ではないんです。《す》尽きるときまで、ただ幸せで在るように。……わかっていますか? 陽月。すべてあなたがくれたんです。今の私の幸せも、影月の幸せも」言葉より鴇鮮《あぎ》やかな愛《いと》しむ微笑《げしょう》に、カッと頭に血が上った。何かが胸にうずまいた。  何もかも掛みにじりたくなった。すべては綺麗事《されいごと》だ。影月の『生前Lを見ればいい。   あのまま生きていて、どこが幸せだ。あの親兄弟を見て、人が好きだと、それでも言えるか。 「……話にならん……!」   だが、口から出たのはそれだけだった。この堂主の顔をこれ以上見ていたくなかった。   自分のなかの、硬《かた》く冷たく凝《こ》り固まったものを、このl男は解きほどこうとする。  Y              、、、、、  、、、、、、、、、   1そんなことはあってはならない。 「一では、見せてみるがいい」   陽月は底冷えのする瞳で華眞を睨《ね》め付け、その手を振《・」》り払《さ・.》った。 「影月がこの命を、尽きるときまでどう使うのか」   たまたま運が向いているときなら、何とでも言える。 「時をくれてやる。オレほこれから、影月が酒を飲んだときと、気が向いたときに出る」  命は欠けてゆくまま。命綱《∵∵∵.∴》はオレに握《.し.ざ》られたまま。その一上でどう生きるか、見せてみろ。  猶予《〇うよ》がでされば、|恐怖《きょうふ》が忍《しJ》び寄る。考える時間が増えれば、無いと知っても未来《さ・.J》を見る。時折消える|記憶《き おく》と周囲のl反応で、否《�で》が応でも陽月《ナ・、r》が消えたわけではないことを思い知る。  ありとあらゆる欲が出る。当たり前になった幸せは、その価値を忘れ去られる。  1——−? 己《∵.1.一.、》のl不幸の元を思い、陽《†》月がいなければと、〓走るときが必ずくる。l陽月には、支配下にある影月の考えは手に取るようにわかる。 ( 「牌《いつし幸バ・》でも考えたその一|瞬間《しゅんかん》に、殺してやる)  へぽ堂主がそのときどんな顔をしていたの示、陽月は知らない。  見たくなかつたから、顔を背《・∵ト.》けて、意識を沈《..! 》めた。  雪が、音もなく降りつづいていた。  ……どこまでも、失ってばかりの子供だった。まるで、それが天の定めた運命のように。                                                                                                                                                                   ロー..j   ようやく手に入れた穏やかな時も、受け入れてくれた村も。一笑《ラ′》類《子∵J》も、愛情も、希望も。   たった一冬のうちにすべて砂塵《さ∵人》と化し、影月の掌を幻《ての!?∵り・阜げ∴上》となってすり抜けていった。   すべての幸福が絶望となる瞬間を、陽月は恒問見《ノりし1トーノl》た。こんなにも簡単に、人は、死ぬ。  かつて陽月に牛の乳を飲めと説教をたれた源《l 「.�》じじいも、死んだ。女長老も死んだ‖l                           L一う、・lLfノー  そして、あの、唐変木な男も�。 「……まさか、影月より先に、逝《1・1》く、とはな……)  影月は死ねない。陽月の力で日常生活に支障がない程度に『生きて』いるように見えるだけで、とうに 「死んだ』体が、病に確《ノりノ∴.》ることはない。  hl−1——たった一‥.人きりで取り残されるのは、影月のほうだった。  影月は泣いた。毎日毎日、願《ほぶ》を赤く腫《1》らして泣きながら薬をつくった。嵐《ム∴ 「)》のように渦巻《うr宣》く感情を、泣くと燃えるように体が熱く、反対に心の奥に冷たい穴があくことを、陽月は知った。ァl……ね、泣かないで」   見る影もなくやせ衰《おし」∴》え、腹だけが膨れた男は、それでも微笑む。l  その穏やかな脾《!?し∵待》を、影月はまっすぐに見つめ、……陽月は日を逸《そ》らした。                                                                                                                                                                                                                                              −1.ト   変わらなかった勇。めぐる季節のなかで、どんなふうにこの男が影月と過ごしたか。繋《——′ノ》いだ手の温かさは、否が応でも陽月のUもとに届いた。   その眼差《またそー》しが、いつだって影月のなかにいる陽月にも注がれていたことも、知っていた。  とことん無視した。たまに 「外』に出ても、徹底《∵.∵、∴》的に避《\.》けた。  その男も、もうすぐ、死ぬ。  ……|奇妙《きみょう》な、感覚を覚えた。何か重いものが、ずん、と腹の奥でとぐろを巻いていく。  影月ではない。明らかに、それは陽月日身のものだった。  少しずつ少しずつ、大きくなる。冷えて凝l《二ノー》る、不快な感覚。けれど消す方法もわからない。         あ   くろ・いバき      、、1   おとず  ——ー荒れ狂う吹雪の目。その時は訪れた。                                                 さい.一  死ぬ、と、わかった。これが、この男の、最《▼》期だ。  刺郡《せつな》、道寺《て・り》を飛び出したのが、自分だったのか影月だったのか、わからなかった。  真っ白なのは視界か、|脳裏《のうり 》なのかも。すべてが灼《十》き切れるようなこの感覚は何だ。  世界が、震《ふる》える。どこかで薄氷が砕《はlくりトゝうくだ》け散る苦を聞いた気がした。心の、奥深く�それ、は。   ど《ヽ》っ《ヽ》ち《ヽ》の、ものだ。 「陽月、陽月、陽月、−!」  名を、呼ばれ、我に返った。吹きすさぶ、どこまでもどこまでも白く凍《,一▼一》えた世界。  殺してくれ、と言うのだと思った。何もかも来《・りしだ》い、最後の希望も潰《 「い》えた。愛した村人の死を看取《みレ一》りつづけ、ついにはたった一人で取り残され、死ぬこともできずに。  疑いもしなかった。けれどー。 「生《ヽ》か《ヽ》し《ヽ》て《1》! 僕の残りの命を使っていい。どんな形でもいいから、引きずり戻《もど》して−!!」  愛してる。  硬貨《こうカ》の裏表のような存在だからこそ、奔流《ほんり軸う》のように想《おも》いがぶつかってきた。  愛してる、愛してる、愛してる。  逝かないで。消えないで。置いていかないで。−生きて、ほしい。  ……陽月は、自分の奥でとぐろを巻いていた感情《ココロ》の正体を、知った。  道寺に戻った陽月は、待っていたかのように留《とど》まっていた華眞の魂塊《こんはく》に、そっと触《・訃》れた。 「……影月の、願いだ。オレの意志じゃない。勘違《かんらが》いすんな」  ぶつぶつと言い訳がましく|呟《つぶや》くと、チカチカと魂塊が明滅《めいめつ》した。まるで|微笑《ほほえ》むように。 「……影月も、長くない。そんくらいまでほ|根性《こんじょう》出して|面倒《めんどう》見てやれ」  陽月は万能《ぱ・んのう》ではない。二人の死体を『生かすhなら、奇《J、》しくも影月の|叫《さけ》び通り、陽月の|影響《えいきょう》を色濃《いろこ》く受けた影月の塊を分かつしかない。当然、寿命は一気に半分に減る。今まで消費した分を思えば二人ともに五年−いや…告。   、、、、、、、、、、、……それでも、影月は願い、陽月は叶える。そう1命の長さは重要ではない。  村人全員を見殺しにした。選んだのはたった一人。その罪を背負ってなお。   ただ、自《ヽ》分《ヽ》た《ヽ》ち《ヽ》のためだけに。 「散々偉《え・り》そうなこと言いやがったんだ。影月にできて、貴様にできないとは言わせない。|拒否《きょひ 》は許さん? −たった数年でも 「生きてみろ。告…影月、の、ために」最後の嘘は、小さくかすれ、頼りなく震えて床に消えた。  手を焼かす子供たち《ヽヽ》に|溜息《ためいき》をつくように、魂晩がチカリとひとつ、優しく|瞬《またた》いた。   lサ車l′                  �一l一ュ.J LH lーナノ′  次々と馬が茶州へと出立していく仝商連と秀麗《ぜ人しょ∴お読しやっれい》がとった虎林《一�う》郡までの最速の救援手段は、準備ができたものlを端《Hし》から茶州へ送り出すことだった。すでに薬や物資、器具は秀麗が全商連に出向いたその日から輸送をはじめている。速度を優先し、馬や鳥車になるべく負担がかからないよう重量を加減し、ある程度まとまったら片っ端《.——し》から茶州へ送りl出す。.秀鰯と医師たちはすでに出立した。そして1−‥工茶克軸《��二・、いし幸/�》は手短に帰郷の意を述べた後、おもむろに両手のl組み方を変え、|膝《ひざ》をついた。  ざわ、とその場が揺《沌》れた。息を呑む音がいくつも克軸のl耳にすべりこむ。 「茶家当主として、陛下に心から御礼《お∵れれ一�》申し上げます。茶州は茶一族の一故郷。病に苦しむ同胞《�=一吏−J》たちのために、いち早い対策をお許しくださったこと、それらの手を打ってくださる州牧《しや一Jヂー‥》たちを派遣《は!?∵人》してくださったこと、感謝の言葉もございません」そこここで、うしろめたく視線をはずす気配がした。若き茶家当主の静かな言葉は、皮肉を含《・い′1》んでいるのか否《いな》かを|曖昧《あいまい》にする。秀麗や悠舜《げうしゅ人》とともに駆《Jり》け回り、各所で茶家当主として交渉《.1てリ——しー†り》し、当主印をもって大きな力となった彼を、朝廷の誰も 「|平凡《へいぼん》』と思う者はいない。  克海は、いつでも|精一杯《せいいっぱい》手を差し伸べてくれた二人の年下の友人たちを思う。   彼らのために、そして彼らと出会わせてくれた、眼前の王のために。 「�我が名と我が血、家紋《かもん》�孔雀繚乱″《ノ\じやくりようらん》にかけて、ここにお|誓《ちか》い申し上げる。これより我が茶一族、うちそろいて劉輝《l−ゆうき》陛下に恭順《きょうじゅん》の意を示し、賢慮《けんりよ》しろしめす御君《おんきみ》のー御代《みよ》にて忠節の剣、《つるぎ》忠諫の楯《ち軸うかんたて》をもってお仕え申し上げる。1茶家は、あなたに従いましょう」公《おおやけ》の場で、彩《きい》七家の当主が現王に正式な恭順の脆礼《されい》をとったのは彼が初めてだった。   末席とはいえ、他家を大きく引き離《はな》す七家の一、掌握《しょヽフあ・く》−。  種々の思惑《おもわく》をはらんだ官吏《かんHリ》たちの視線がいっせいに玉座へ向かった。 「……受けよう。茶家の若当主」   少し低い美声が、驚《さよう》するでも喜ぶでもなく、落ち着いてその場に響《ひげ》いた。 「茶鴛海《えんじゅん》を、超《こ》えてみせよ。その名の通りに」   克海は膣目《どう.もく》した。−まさか自分の名の意味を、ここで問われるとは思わなかった。   国の真心と称《しょう》され、先王を支え続けた偉大《いだしl》なる大伯父《おおおじ》。あの人を、超えよ、と簡単に。 「先代者《きく》の君《さみ》』に恥《ょ》じぬ宗主《そうしゅ》たるよう。期待している」  ……努力する、など、この場で口が裂《さ》けても言えるわけがないのに。   茶州にて肝《きも》を据《す》えて茶家をまとめ、国の一翼《いちよく》を担《にな》えーという、それは、玉命。 (あわー……さすが王様……逃《に》げ道もつくってくれない……)   ちょっとカッコつけすぎたかも、という後悔《こ.つ・力∵L》はもはや後の祭りである。  克泡は息を深く吸った。……当主を証《あか》すこの指輪をはめたときに、すでに誓った。  春姫《つま》と、英姫《えいさ》と、喪った家族と、鴛泡が示してくれたこの名の意味にかけて。       ぎょい   さっかくんし     はまれ一つ 「−御意。『菊花君子』の菅、継いでみせます」  ぐっと上げた視線の先で、王が笑った。          感串�率一�    しゅじよ∴ノ 「主上」  経仮《▼.ごブゆう》はいつも通り執務《し 「む》を始めた劉輝の机案《つ′\え》に、お茶を置いた。 「禁軍派遣の件、秀麗に拒否されるのを承知で言ったんですね?」  劉輝は驚いたように絳攸を見上げ、次いで苦笑いした。筆を欄《お》き、謝れてくれた茶に手を伸《の》ばす。……さすがは経倣、劉輝の心などとうに見透《みr》かしている。 「……半分は、本気だった。秀麗が受ければ、出していた」 「でも、答えはわかっていたでしょう」  劉輝はお茶をすすった。静かに呟く。 「……秀麗には、出世してもらわなくては困るのだ」  経仮はじっと劉輝を見下ろした。その瞳に驚《ひとみおごろ》きはない。 「秀麗なりの、秀麗にしかできないやりかたで」  他の誰《だれ》とも代えのきかない、ただ一人の存在として。  絳攸は小さく笑み、領《うなず》いた。 「……今回は、死んで失敗するか、生きて成功するかのどちらかです。当初文句を言っていた大方の官吏が、茶州に秀麗を返せば労せず死んでくれると思って、最後は高みの見物を決め込んだ。どこからか、そういった情報を流した者がいるようですね」 「特定は?」 「必要ないでしょう。今はまだ」 「そうだな」  劉輝は頷くように、茶器に日を付けた。白い湯気に目を細める。……約束を、した。 「……秀麗は、生きて帰ってくる」 「はい」  病、民心の安定、�邪仙教″《じやせんきょう》の鎮圧《ちんあつ》−誰もが、軍の派遣なしに平定は不可能だと思っている。けれど、もしそれらを最小限の|犠牲《ぎ せい》でおさめられたなら。  秀麗の名の持つ意味が大きく変わってくる。  今回は、鄭《てい》悠舜や浪燕青《ろうえんせい》の力だけではない。彼女自身の、認めざるを得ない功績になる。  劉輝の仕事は、信じて待つこと。秀麗をはじめとする臣下たちに託《たJl》したものを、疑わずに。 (帰ってくる)  ぐっと深く息を吸いこんだ劉輝の前に、小皿が置かれた。そこには蜜柑《みかん》が二つのっている。 「なんだ、どうしたのだ。|優《やさ》しいな」 「先のためとはいえ、ずいぶんとよく……|我慢《が まん》していますからね」  劉輝は目を伏せた。優しくされると、いろいろポロポロこぼれそうになる。 「……二つあるな。|一緒《いっしょ》に食べよう」  毎日黎深《れいし人》のやけ食いに付き合わされていた経仮だったが、文句も言わずに頷いた。 「いいですよ」  劉輝は嬉《うれ》しそうに笑うと、いそいそと蜜柑に手を伸ばした。                                       サl蒜、        、∴肯                  誹彗 「  墓  ……水音が、聞こえる。  気の遠くなるほどゆっくりと工たその藷に、影月は何度日かしれぬ覚醒《かlくせい》をした。  頼りなく視界で揺れる光は、洞窟《とう・〜ノ》内に灯《とも》された|蝋燭《ろうそく》のもの。  膝をついてはいるが、両手も礫《‥‥りつJ》にされているために横にはなれない。水音は、そこから−杭《く》で岩壁《がんlへき》に打ち付けられた両の掌《てのけlら》から、思いついたようにしたたる自らの血の音だった。  とうの昔に失血死しているはずの日東が流れても、影月は生きていた。  目の前が、ぼんやりとかすむ。影月は鉛《なまり》のように垂たい頭を一振《けし⊥・わ》りした。  ……あまり、衝動《しょうどう》的に動くことも、それを後悔することもなかったのだけれど、さすがに、  死期が近いと、人間へソな行動をとりたがるものらしい。……いや。 (僕は……きっと何度でも追いかけた……)  あの、姿を−|微笑《ほほえ》みを見せられて。|黙《だま》っていられるわけがない。  もうー二度と会えないと知った上で、別れた、この世でいちばん愛する人。  すがってきた少女も、病に苦しむ人も、あの瞬間、《しゅんかん》すべてが吹《一ふ》っ飛んだ。 (まったく、修行が《しゅぎよう》足りない……)  いつでも、堂主《ごうしゅ》様のように、ありたいと思っていたけれど−ほど遠いままで。 (ああ……秀麗さんと、燕青さんに……最後までとんだご迷惑《めいわノ\》、を……)  それでも、彼らなら許してくれる気がした。そう思える時を過ごせた自分を、幸せに思った。  人生は、本当に、捨てたものじゃない。 (陽月……)  うつむいた影月の視界には、ぐるりと自分を囲むようにして地面に描《えが》かれた、|奇妙《きみょう》な円形の模様が映っている。……ここに囚《レ」ら》われたときから、『暢月』の気配が消えた。  �邪仙教″が『誰』を欲しかったのか−影月は埋解した。彼らのいくつもの矛盾《むじゅん》や、不可解に思えた謎《なぞ》も、ここへきて、すべてが氷解した。 (……陽《1一・′l》月のために……何より僕自身のために……僕は、まだ、死ねない……)  直接杭をうがたれた手を少し動かせば、慣れてしまったじくじくとした惰性《だせい》の痛みから、気を失いたくなるような激痛に変わった。  それでも、影月は歯を食いしばってじりじりと片方の手を動かしつづけた。  どんな噂が《うわさ》あろうが、秀麗は必ずくる。影月はそれを疑わない。病に関するすべての手を打ったそのあとで、消えた自分を迎《むか》えにー囚われている残りの村人を救いに、葉山《ここ》へくる。 (まだ……僕は、生きてるんだ……)  医者で、州牧《しゅうぼ′\》で、 「杜影月』のままで、ここに在る。最後まで、するべきことをしなくては。ふと、影月の双降《そうぼう》につかのま、凄絶《せいぜ 「》な怒《しわ》りの炎が《ほのお》灯った。目の前に現れ、自分をここに燦にしたあの男一『干夜《せ人や》�ここまで、日も眩《く・一》むほど怒り狂《.\る》ったのは、人《ヽ》生《ヽ》で《ヽ》二《ヽ》度《ヽ》日《ヽ》だ。   −あの男だけは、許さない。  あの男がしたことだけは、決して、許さない。  欄々《・りん・りん》と怒りに燃える目で、影月はただそれだけを思った。                               哲         ふ           。く  届いたすべての書翰《しょかん》を、破り捨てた。床《時か》や卓子《たくし》に、足の踏み場もないほど大量の書物が乱雑に散らばっている。そのなかにいた龍蓮《りゆうれん》は立ち上がり、拳を壁《こぶしかべ》に叩《たた》きつけた。 「……影月……」  あえぐように喉《のご》の奥で何度もその名を|呟《つぶや》く。   両手で顔を覆《おお》う。あふれるものをこらえるかのように、何度も小さく息を吸う。 「影月……!」   最後にもう一度、壁を殴《なぐ》りつけると、龍蓮は踵《きび寸》を返した。   いつもの衣装どころか、旅装とも言えぬほどの軽装で馬に飛び乗り、手綱《た. 「な》を打つ。   −茶州、柴山《えいぎ人》へ向かって。                                                                   寸や・�l                         声      ギ  一札鴻鵠                                                                            《ヰ・》だ..さ   歳の頃《ころ》は七つ八つ。少女は、影月が駆《か》けていった山に通じる道で、毎日待っていた。   影月の突然《とつぜん》の|失踪《しっそう》は、石集村の人々に大きな動揺《どうよう》と衝撃を与《しようげさあた》えた。  的確な|治療《ちりょう》もさることながら、いつも|穏《おだ》やかな|笑顔《え C90がお》かべ、村人の不安や汎心怖《きよ∴ノふ》を取り除くのに心を砕《/、だ》いた。心身ともに疲《つか》れ切っている医者や家族をそうと察すれば、さりげなく看護を肩代《かたが》わりし、休息をすすめ、時に話をきいた。何よりも、影月だけが、絶望していなかった。   彼の笑顔と『|大丈夫《だいじょうぶ》Lという言葉こそが、いつしか石発村の人々の支えになっていた。   その彼が、忽然《こつぜ人》と姿を消したことによって、再び村に暗い影《かげ》が広がろうとしていた。   影月と最後に会った少女は、その日も|暇《ひま》を見つけて村のはずれで山を見上げた。  少女の目から不意に|大粒《おおつぶ》の涙が《なみだ》ポロポロとこぼれた。   もう、帰ってこないー心のどこかで、それを悟《きレー》った。影月はもう、帰ってこない。 「……ラン。シュウラン……凍《こ一】》え死ぬぞ。いい加減、あきらめろ」  後ろから声をかけたのは、シュウランとさほど年格好の変わらない少年だった。けれど黒曜石のような双絆は大人びて、冷たくはなかったが子供らしい感情豊かさとも縁遠かった。 「……少し、つて言ったのよ。影月お兄ちゃんは嘘《∴ノ一て》つかないもん。何か、あったんだわ」 「見切りつけて逃《−」》げただけかもしれない。お前の母親もまだ生きてるのにな」 「やめてよリオウ! 影月お兄ちゃんはそんなことしないもん!」  リオウは肩をすくめた。彼は薄狩《うすよご》れてはいたが、仕草の一つ一つにはHを惹《け》くものがあった。 「じゃあ、朗報だ。ついさっき、村にぞくぞくと薬や食べ物や医者が|到着《とうちゃく》した」 「−もしかして影月お兄ちゃんが言ってた、助けてくれる女の人!?」 「疫病神の間違《やくげようがみまらが》いだろ。女はともかく、なんかこの病気治せる医者たちが、こっちに向かってるからもう少し|頑張《がんば 》れとかって、言ってたな。お前の母親も間に合うかもしれないぞ」  シュウランはいっぱいに目を見開いた。けれどリオウの予想に反して、飛び上がって喜んだりはしなかった。何かを考えるように地面を見つめー次いでぶるぶると頭を振《かバり、い》った。 「……ダメ。それじゃ、ダメよ」 」はっ・」 「いつまでもただ待ってるから、ダメなんだわ。こっちに向かってくれてるなら、私たちのほうからも行けばいいじゃない。そのほうが早くお医者さんとも会えるわ。そうでしょ」  リオウは対日《まゆ》を章《は》ね上ザた。 「……正気かつ・」 「だってあたしたち、何もしてないじゃない。影月お兄ちゃんは村のl外から助けにきてくれた。でもあたしたち、泣いたり喚《わめ》いたり拝んだり、誰《だわ》か非難したりしてるだけじゃない。苦しんでるのはあたしたちのl家族なのよ。そうよ、外の人があたしたちのために飛んできてくれたのに、なんで肝心《かんト)・八》のlあたしたち、何もしてないの。自分たちで頑張って助かろうとしてないの」                                                                                                     .J 「……このl寒空のなか、病人みんな担《ノり′》いでせっせと両おりろっていうのか?」  影月を思えば、シュウラソは情けなかった。自分たちは、誰かが助けてくれるのをただ待っているだけだ。けど、影月が教えてくれた。決して、あきらめないこと−。 「できるはずだわ。葉山石とってくるのに、一家に何台か荷馬車あるじゃないl。お医者も薬も食べ物もたくさんきたんでLlよ? 今行かないでどうするの。そこらうろうろしてるお役人にも荷台引いてもらって、片っ端《バし》から毛布かき集めてーできるわ。みんなに言って、やろうよ。ねえ、もう待ってる時間なんて、ないのよ。あたし、一人でお母さん担いででも行くわ」   リオウほ腕《うて》を組み、シュウランのl涙日を見つめた。ややあって、|溜息《ためいき》が落ちる。 「……まあ、そうだな。やるだけやってみるか」    芸と−                                          董卓          奇、鞍L軒1至覇Jq−ハ1−日勺パH日日H〓掲一lく=1バHHHHけいNHlH・J・絶叫Lr娩ll�臨″琵ト鑓トLFF・卜く1� 「.r章こ1ポkHノーノhlrゞJLBバし耳と? hT鏑/l山へJJノり−1,ーl封劃�テl∵�軍当・4封1再レ臥し監′一←? 鱈lElさ上戸.′降らしトドし  茶州の境までの最短行路を、騎財《さf》の一群が冬将軍を追い払《ょ・.》うように駆け抜《由》ける。先に物資を積んだ一団が次々と抜けているため、除雪をする必要もなく、雪混じりの泥《どろ》を蹴立《Hた》てて昼夜を問わずひたすらに駆けた。その半分近くの馬影《げえい》にはもう一人乗っていた。  楸瑛《Lゆうえい》は腕の中ですっかり血の気が失《う》せている秀麗に気遣《さづか》わしげな視線を落とした。 「……秀靡殿《ごの》、えーと、大丈夫かな。気絶してない?」 「……むしろ……気を失いたいです……」  健康ってなんだっげ、と秀麗は思った。痛覚も|麻痺《まひ》したらしく、お尻《し〓》の感覚はすでにない。  同じように慣れない馬に全速力でカッ飛ばされつづけた医官のなかには幸せにも失神者が続出で、騎手の背中に紐《けむ一》でくくりつけられて負ぶわれ、気絶したまま運ばれている。                                     ヽノ1  いちばん馬術に秀《▼lしlヽ》でた楸瑛と相乗りしている秀麗は、まだマシだった。とはいえ、そんなのは何の慰《なぐき》めにもならない。いくら楸瑛が負担の少ないように気遣い、揺《ゆ》れないよう腐心《ふし人》しても、ぶっ通しで駆けていれば意味がない。一人、薬《上てつ》医師だけが大変元気であった。 「暇ができたら……うま…馬の練習でもしようと思います」   舌をかみそうになるのをこらえながら、傍《プてりり》を走る柴凛《七−いhリ人》を見る。羽林《うり人》軍の騎手に負けずに一人馬を駆りつづけた女性騎手に羨望《せ人ぽう》の眼差《まなぎ》しを向ける秀麗に、楸瑛は苦笑《! 、しよ∴ノ》した。 「柴凍殿ほどの腕前《うでまえ》になるには相当の修練が必要だよ。いや、|驚《おどろ》いたね」   軟瑛ほふと前方にぽつんと見え始めた関塞《かんさい》を認めた。 「……秀麗殿、もう少しで茶州の境−桂里関寒《きいりか人さい》だ」   瞬間、《し沌んかん》ふらふらしていた秀麗の頭がぐっと持ち上がった。 「八日−:」  赴任《にん》の時、茶家の|刺客《し かく》に追われながらコソコソときた道行きではひと月かかった。それが最速の駿馬《しゅんめ》を乗り継《つ》ぎ、最上の騎手を伴《ともな》って駆けに駆け�八日。 「……無茶を聞いてくだきって、ありがとうございました、藍《・りん》将軍」 「ただの鍛錬《たんれん》だよ、秀麗殿」   虎林郡まで最短の移動時間を弾《はじ》きだすと、秀麗と悠舜は迷わず羽林軍官舎を|訪《おとず》れた。そうして羽林軍を統括《とうかつ》する大将軍二人をズバリ『茶州の境までちょっくら寒中馬術鍛錬しませんか。  重《ヽ》石《ヽ》付きで』とお|誘《さそ》いしたのであった。   結果、『重石』州牧一行は選《え》りすぐりの騎手兼《け人》護衛と名馬の一群確保に成功したのである。   《一》王のみに仕える近衛《このえ》・羽林軍を顎《あご》で使った州牧として後世歴史に残るかもしれない。 「私たちのことならいちばん軽い無茶だと思うけれど。まったく……君は大物になるよ」   こうと決めたら|脇目《わきめ》もふらずに突《つ》っ走る。悠舜が傍で支えていることも大きいが、保身を考  えずにもてる権力を最大限利用し、次々と対策を立てていく秀麗の姿を見ていたら、……彼女                                                                     ・−  ょ  に治められる民《ナJノ》は幸せだろうと、思った。母が我が子を守るように、彼女は民を必死で守る。  印可《しようカ》に泣きすがりながら、それでも行くのだと言った彼女は、紛《ーぎ》れもない出吏《カÅり》だった。  不意に欣環は眉を寄せた。……ここまでの一道のりを思い出す。  柴凛が秀麗と間違えられて、街の兵士から矢を射られたのは昨日の一こと。   ー1呼《∵ノわさ》は、確実に広まっていた。  楸瑛は|涼《すず》しげな‖北に険を刻んだ。1白いったい、彼女があらゆる非難と罵誓雑言《fりそす,ご・》に耐《た》えて、不眠《;,�人》不休で駆けずり回ったの豆誰のlためだと思っている。朝廷《rトよ・�‥》で、運が悪い民は見捨てていいと言ったも同然の出吏たちを佃手に、彼女が何と言ったか、知り・もせず。l秀麗は何も言わなかった。むしろ若い医宮たちのほうが濡れ衣《き来》にぷんぷん|怒《おこ》っていた。  正しい知識があれば、彼らのように真偽《\∴\・》を見分けられる。けおど多くのl民はそうではない。  ことに邪仙教とやらは秀一躍を‥u生け暦《∴・∵》に捧《\.\.》げなければ病は収束しない」と言いふらし、これから向かう先の民は、それを本気で信じている。 「……女性がこれから戦場に行こうというのに、すごすご引き返すしかないとはね」  昨日射られた教本のl矢など、問題にもならない。  楸瑛ほぞくりとした。腕の中にいる少女は、楸瑛が片腕で支えられるくらい軽くて小さい。  たったひとつの礫《Jぷて》でも、当たり所が悪ければ命数が《プ》尽きるほどに。そう、武器など必要ない。  流言を信じ、実行しょうとする者には、そこらに転がっている石ころ 「つで九分《じゃJバん》なのだ。  嫌《.γ——》なき予感を追い払おうと、楸瑛は何か言おうとした。そのとき、ぐんぐん近づいてきた圧里閲寡で娠られている旗に気づき、情然《⊥りノ、セ・ん》とした。  城郭《じょ.リカノ、》の上で振られている旗は、通行不可を示すもの。思わず楸瑛ほ背後を振り返った。      さ八七、人 「禁軍旗は!?」 「立ててまけ昌一見えないはずがありません。‥」苦ますべての城塞を検問なしで通過可能となる禁軍旗。壕の一跳ね橋まではあがっていなかったが、日が高いというのに関塞の城門は国く閉《l? .》ざされている。      いJーも−ノLlーLよ.リ  状況を察して、秀麗は青ざめた。 「藍将軍……ここまでで結構です。ありがとうございましたL 「蟻鹿《バノり》を言うな!」  楸瑛は激昂《rlノ‥Lてつ・》した。城門の前で怒り仔せに手綱《たづな》を引く。埠十《!?∵こうし》に秀麗が楸瑛の胸当てに盛大に後頭部をぶつけ、日から火花を散らしたことも気づかなかった。 「臣里関塞!!貴様らの目は節穴か‖‥l伝令が来ているはずだ、とっとと開門しろ!!」  どリビリと空気が震《・ルる》えるほどの怒片《しlごう》に、城門の上に立っていた歩哨《ほしょう》たちは思わず身をすくませた。それでも、彼らは叫《レ・1−・》び返した。 「で、できません!」                            でしぶさつ一 「なんで茶州ぽっかり貧《▼l》乏《/..》くじひかされにゃあならんのです!」 「もうたくさんだ。せっかくちいつとずつ良くなってきたlつちゅうのに、女子供なんかと取っ替《か》えて、今度は|妙《みょう》な病が広がるときてる。ふざけやがって!」 「入りてぇってんなら、その女の首カッ斬《ヽu》れ!」 「そうだ! そうすりや病が収まるんだ。州牧だってんならそんくらいしたらいいんだ!」  かつん、と楸瑛の傍《そげ》に配下が一騎《さ》近寄った。薄《うす》く散ったそばかすのせいで歳《とし》より幼く見られがちだが、いつも控《けか》え目ではにかむように笑う彼が、|珍《めずら》しく|眉《まゆ》を吊《 「》りLLげていた。 「将軍、射|貫《つらぬ》いていいですか。自分、残らず討《う》ち載れる自信すごーくありますよ」 「はっはっは、即刻《そつこJ、》許可したいところだけどねぇ韓作、《有∵人しょ∴ノ》矢がもったいないからやめておけ」  楸瑛は寸前で声をかけてくれた配下に感謝した。でなければ問答無用で楸瑛こそが矢を放ちかねなかった。険を寄せて歩哨《ほしょう》たちを睨《.�り》み上げる。虎林郡を救う、たった一つの手だてを携《たずさ》えて駆《か》けつけた州牧を、彼ら自身が際《つ�》しているのだ。 「まー、よくあるこっちゃの」  葉医師は軽い〓調とは反対に、歩哨に冷たい|一瞥《いちべつ》をくれた。そう、長い長い時の中で腐《くさ》るほど見てきた光景だ。目の前のことだけに気をとられ、何を失うかも気づかない。−けれど。  涙目《なみだめ》でぶつけた後頭部を押さえていた秀麗は、深く息を吸うと、ぐっと顔を上げた。  柴凛は秀魔の傍に馬をつけると、落ち着いた微笑を浮《げしよう・り》かべた。 「紅《こう》州牧、ご安心ください。そこまで無能なら、即刻彰《そつこ・1しょう》を柴家から叩《たた》き出します」 「え? L  プrこリレーしぎ−ヾ」つlこ0  楸瑛をはじめとする羽林軍兵士たちは、思わずそれぞれ1の武器をつかんでいた。  秀麗もわけがわからず、思わず身をすくめたほどの、裂畠の剛気《れつH・、ごう・さ》がその場を打った。 「こらー! 何考えてやがるこんのアホたれどもっっ!!手遅《てお′\》れになったらてめぇらどう責任とるつもりだっ! 余計な世話やかすんじゃわーっつ!!」  ゴソゴンゴソ、と遠くで拳骨《lr人こつ》の音が聞こえた。同時に城門の上に陣取《じ人ご》っていた歩哨たちがそろって頑をおさえるのが見える。そしてーなんと、その遥《はる》かな高みから、人が降ってきた。   秀麗は思わず身を乗り出し、次いで馬から転がるように落ちた。 「秀麗殿!?」  楸瑛の声も、|擦《こす》りむいた傷も構わず、秀麗はすぐに身を起こし、駆《か》けた。  無謀《むぼう》にも城壁《じ上てつへさ》から身一つで飛び降りた人影《ひとかげ》は、長い棒のようなもので|激突《げきとつ》する前に城壁を打ち、引《!?》き締《し》まった体躯《たい/、》をふわりと回転させて着地した。きょろりと首を巡《こうペめぐ》らす。 「よし十点満点。さーて姫《ひめ》さんぼーっとと?」 「−燕青!!」   秀麗は脇目もふらずに駆け、地面を蹴《す》った。 「おっ? おおっとっと。こりゃまた熱烈大歓迎《わつれつだ�.かんげい》だなー姫さん」   まっすぐ飛び込んできた秀麗を、たくましい腕《うで》が抱《だ》き留め、ぐいと抱き上げた。  何もかも、できないことはないと思わせてくれるような破顔一笑l。《いりしょう》 「すっげぇ早かったなぁ姫さん。頑張《が人ば》ってくれたんだな。ありがとさん」  秀麗は顔をくしゃくしゃに歪《沌か》め、燕青の首にぎゅっとかじりついた。 「おかげで髭剃《!?lげそ》るの間に合わなかったじゃん」  秀麗は泣かなかった。大きく息を吸い込んで、|我慢《が まん》した。 「……言い訳、しないのl……つ」  燕青は大きな掌《‥1�‥.∴》で、秀麗のl背をぽんぽんと優《・∵一.》しく附《∴h》いた。 「本当だって。なー某彰っ《さ�LL・J》」 「嘘《−ノ.て》ですよ紅州牧。l《寸》今朝《�l》充分時間あったのに剃ると寒いーとか言lつて剃らなかったんです」  告げ口とともに、堅牢《Hノll∵ら�》》に閉じていた門|扉《とびら》が内側からゆっくりと聞いていく。 「……それにしてもありえない早さですねぇ。本当にどんな手を使ったんですか? Ll   qノ..・一.               =\・∴‥こ・一                     ・、..∴−へ・眼鏡を押し土《一ヾ−》けながら瓢わ、と出てきた弟に、柴濠は唇をゆるめた。 「まさか、準備は方端《げ∵ハ十∵入》に整っているだろうなっ・彰」                                    ごー.ー 「当然ですよ。誰《ノ一−く》の弟だと思ってるんですっ・姉さん」  柴彰はにっこりと鰻《うトーゞ−》のような笑みを|浮《う》かべた。 「あっはっは、羽林軍将軍さんまで駆り出しちゃったのか。さすが姫さんと悠舜。で、悠舜と克泡は、静蘭《せい・�人》に守られて第二陣《じ・l八》で|到着《とうちゃく》……てことは、あと一目二日でくるか」  撞里関寒に入る前に、城門前に柴彰たち全商連が簡単に天幕を用意した。  |疲労《ひ ろう》困憊《こんぱい》の医師団を休ませがてら、秀麗と楸瑛はかいつまんで現況《げんきょう》を説明した。 「『馬術訓練』はこの桂里関塞までだから、私たちはこれで帰参しなければならないが……」  楸瑛は傍に立てかけておいた、布でぐるぐる巻かれた細長いものを燕音場差し出した。 「これを、静蘭から預かってきました。あなたに渡《わた》してほしいと。−�干臍″《九∵んしト←∴ノ》です」  いかにも気軽に受け取った燕青は、目を丸くした。 「�干将″ってあいつが王様からもらったあの剣《H∵ん》か?L 「そうです」  楸瑛は思わず羨《う・りや》ましそうに布を眺《なが》めてしまった。武人なら一度は手にしてみたいと願わずにはいられない、垂艇《十一いぜ人》の宝剣なのだ。ただし、双剣《そう!?・れ》を引き離《はな》してまで使える者は限られる。  護符《ごふ》でぐるぐる巻きにされたまま渡されなければ、楸瑛も試《ため》してみたかったところだ。  そう未練を馳《一J》せていると、景気よく布や紙が破れる音がした。ぎょっと見れば、楸瑛の言も構わず、燕青はびりびりと�千路″の包みや護符を引き裂《ヽ.》いて中身を取り出していた。 「げ。マジで剣だよなぁこれ……何考えてんだあいつ」  平気で�干牌″を手にしている燕青を見て、楸瑛は思わず息を呑んだ。まさか�。 「……燕青殿、以前、静蘭から剣は苦手なようにうかがいましたが……」 「んっ・ああホント。剣はダメなんだ。あいつも知ってんだけど……ああ、そっか」  燕青は子供が遊ぶように天下の宝剣を掌上《しょうじょう》でくるくる回した。とんでもない扱《あつか》いである。 「……そーいうことか」 「燕青? ちょっと|大丈夫《だいじょうぶ》フ」  燕青はにっかと笑うと、なぜかくしゃくしゃと秀麗の髪《かみ》をかきなでた。 「藍将軍、遠路遥々、かけがえのない州牧と医師団の護衛をしてくださったこと、厚くお礼申し上げる。機会があったらおごります。えと、ツケで」 「燕青! そんなこといってるから借金が全然減らないのよ。首が回らなくなるわよっっ」 「いやアレほお師匠《ししょう》と柴彰の骨の髄《ずい》まで追い鮒《t》ぎ返済計画のせいで」  そのやりとりに、楸瑛はふっと小さく笑みを漏《一じ》らした。静蘭が何も言わず秀麗を送り出した理由がよくわかった。今までどこか張りつめていた秀麗の空気が、雪解けのようにほどけて。   そしてさっきの、まっしぐらに燕青に駆けていった姿。  他《ほん、》の誰にもその場所は|譲《ゆず》らないと思っていたが、ただ一人、静蘭が認めた男がここにいる。  楸瑛は、ようやく少しだけ不安の影《かげ》がぬぐわれた気がした。彼なら−。 「�貰陽《きよう》にて陛下共々、朗報をお待ちしております。……秀麗殿、どうか、無事で」 「ほい。最善を、尽くします」   秀麗は|微笑《ほほえ》むと、深々と楸瑛に頭を下げた。  楸瑛の命《めい》を受けて、配下たちは心配そうに振《lJ》り返りながら渋々《しぷしぷ》騎乗していく。何せ吹けば飛  ぶどころかポックリ逝きかねない医師団だけを残して、すごすご引き上げるのだ。 「……藍将軍」  皐韓升《こうかんしょう》は楸瑛に近づいた。∴心を落ち着けるように、得意の弓を何度も酢《トJ》でている。 「嫌《..ヾ》な……気持ちですね……皆《一ノlな》さん、いちばん危険なところへこれから行くっていうのに」 「……そうだなし 「でも、考えてみれば、女の入って、いつもそうやって僕らをただ待ってるしかなかったんですよね……。‖|扉《とびら》さんとか父親とか息子《む 「二》とか、もう帰ってこないかもしれない、今この|瞬間《しゅんかん》にも殺されてるかもって思いながら、でも待つしかなくて」楸瑛ほ思わず三上《′」ト.》歳を過ぎたばかりの一配下を顧《ノんlユり》みた。阜武宮は、天幕を振り返っていた。 「僕は、弓が得意で、もし蝋が《.、・..−》起こったら陛下をお守りして、藍将軍の楯《∴ 「》になって、戦って戦って討死《∴ノ∴∴−:》しても本望だと思ってましたし、それこそが家族を守ることにもなるって信じていました。でも……こうして逆の売場になってみて、武宮になるって言ったときの付と妹の元心しそぅな顔の意味が、ようやくわかった気がします。軍は出さないでほしいって告げた、紅州牧のお気持ちも。たとえば母や妹や−女性たちが『徴丘首《←りようl、ム》れたわ。あなたと、五上のl御為《こ�じ[・リ!?んため》に戦って                                         .一、ノくるから、家を頼《′ノTJ》むわねLとかって激戦地に飛んでって、二度と戻ってこなかったら!」皐武官は長い長い溜息《ト�lめトさ》を吐《つ》いた。冬の冷気に、白く凝《こご》って、消える。 「……へソなこと言って、すみません。勿論《1�ト∵へふ》、事あればこの弓が折れようと、主上の御為に命を捧《ヽ−ヽ、》げます。ただ、紅州牧を見ていて、我が身を振り返ったっていうか。自分にとって死ほどこか『当然』で、……でも、大切な人が死ぬのは、誰だって嫌ですよね。当然なわけない。戦死でも、病死でも。だからこそ、紅州牧はあんなふうに無茶して医皆をそろえて、自分がなんとかするって、禁軍の派遣《は〓ん》を|拒否《きょひ 》したんだなって、なんか、色々考えたりして」  波紋《1一U・人》が広がる様《士Jt》を、楸瑛ほ今、目にしていた。   ずっと男のものだった政事。闇《よlつlりごトサやみ》に埋《11ノ》もれ、照らされることのなかった、世界の半分。  一人の少女の形をとって、声が、聞こえはじめる。 「そういえば紅州牧には右羽林軍のふ此武官がお仕えしていて、藍将軍ともご縁《う\左》があるんですよね。いいなぁ。羨ましいです。すごく、愛されてますよね」 「……何っ・」 「だってそうでしょう? 禁軍を拒否したのは、裏返せば陛下の五断《ぎよくだ人》に逆らってまで、荘武官や藍将軍をお守りになったってことですよね。そんなに軽い命じゃないって」|一拍《いっぱく》おいて、楸瑛の目が、くっと見開かれた。   最善を尽くします、と秀麗は笑った。自らの危険と引き換《か》えに、彼女が守ろうとしたものは。 「自分たちほ守り、戦うのが仕事だと思ってましたが……官吏《か人り》というのは|凄《すご》いですね。決断升《J》第《だい》でこんなふうに武官まで 「l守る」こともできるのかと、|驚《おどろ》きました」�・王はどんな思いで彼女を見送ったのだろうと、楸瑛ほ思った。   捉りしめ、守ったものを、彼女は上に差し出す。その掌《ての!?∴》に、ただ王だけがいないのだ。 「……ねぇ燕青、その剣どうするの? 剣は下手なんでしょっ」 「うん、すげぇ下手。|邪魔《じゃま 》だよもー。……ま、Lやーねぇ。抜《ぬ》かないことを祈《いの》るしかわーな」  本気で嫌そうに溜息をつきつつ、燕青は目をすがめて�干将″を眺めた。  自ら赴《おもむ》くかわりに、この剣を託《ト�、》した静蘭。  燕青は乱暴に頭をかくと、やれやれと一息ついた。 「……ま、ちっとは成長したみてーだな。もし静蘭が無理矢理姫《けめ》さんにくっついてきやがったら、マジでぶん殴《なり、》るつもりだったけど」静蘭は秀麗の護衛として、文句なしに有能だ。だが、静蘭のなかで家人と武官の境界線が曖《あい》味《ょい》なことだけは、燕青は茶州赴任《ふ.∵九》の道すがらずっと懸念《りわ人》していた。  紅秀麗という一人の少女と、官吏としての彼女は、思《−ノ′l−》う。守りかたも変わってくる。  けれど、静蘭は究極的に、どっちにせよ『紅秀麗』が無事ならそれでいいと、心のどこかで思っている節《バし》があった。秀麗と、秀麗が守るべき民《たみ》を秤《はかり》にかければ、彼女の意志を無視してでも、静蘭は秀麗を選んだろう。だから燕青は茶州でたびたび釘《ノ、でJ》を刺《さ》した。秀麗を心配するあまり、州牧としての彼女の仕事まで邪魔しかねなかったからだ。  本来の静蘭の職務は、秀麗と同じなのだ。彼女を守ることで、茶州を守る。そのために王は静蘭を派遣したのに、静蘭は秀麗しか守るつもりがなかった。それでは武官とはいえない。  けれど、ようやく境界線を引けたらしい。静蘭が強引《ごういん》についてくることは畢寛《ひつきょう》�邪仙教″に  入信した人々が皆殺《みなごろ》しにされても秀麗を守ると言っているも同然だ。それは、秀麗が茶州のために全霊《ぜん〜lい》をかけて土と官吏を説得し、軍の派遣を見合わせた、そのすべてを水泡《�いほう》に帰す。 (朔海《さくじゆ人》と同じで、頭良すぎて逆にすげぇ|馬鹿《ばか》やってるの正気づかねぇんだよなー……)  静蘭が聞いたら青筋を|浮《う》かべそうなことを燕青はしみじみと思った。  だが、燕青が|拳《こぶし》でわからせる前に、どうやら自力で一山こえてくれたようだ。何をすべきかに気づいたのなら、静蘭ほど有能に職分を果たす武官ほいまい。  静蘭がついているなら、悠舜も州府も心配はない。  彼らにしかできないことがある。そして自分と秀麗にしかできないことも。  燕青は�干将″を天幕に適当に立てかけると、一度瞑目《めいもく》し、秀麗を振《・い》り返った。 「……な、姫《けめ》さん、目の前でバタバタ人が死ぬの、見たことあるか〜」  その膵《ひとみ》に、いつもの陽気さはなかった。やんわりと、けれど|斬《き》りこむように問う。 「かなりすごい|惨状《さんじょう》だと思う。|覚悟《かくご 》、できてるか。生半可じゃ連れてけねぇぞ」 「……相変わらず、|容赦《ようしゃ》ないわね、燕青。……|大丈夫《だいじょうぶ》」  間近にある燕青の双降《そ∴ノば∴ノ》を、秀麗はまっすぐに見つめた。 「あなたは王位争いのときの貰陽を知らないのね。私、|診療所《しんりょうじょ》で手伝いをしていたわ。薬も、ご飯も、なんにもない、ただ死を看取《・�し−》るだけの診療所で。私の仕事は死に水をとることと、手を|握《にぎ》ることと、葬送《そうそう》の二胡《にこ》を弾《け》いてあげること。ねぇ、私、死に水のとりかたなら今でも同で二指に入る自信、あるわ。葬送の二胡なら、お城の楽師にも負けないわ。病気が流行《はや》らないよぅにって、毎日穴を掘《,一_》って、たくさんの死体を焼く手伝いをしたわ。でも今度は、お医者も、薬も、あるのよ。何の覚悟が必要なの。私、葬送の二胡を弾きにきたんじゃないわ」  燕青は言葉で謝るかわりに、秀麗の背を軽く叩いた。 「……うん。よし、じゃ、|一緒《いっしょ》に行こうな。虎林郡で、怖《二わ》い思いすっかもしんねぇけど」 「大丈夫。父様のとこで先にまとめてさんっぎん泣いてきたから。もう泣けないわ」  胸を張る秀麗に、燕青は苦笑《/ヽ.Lトでう》した。……やはり、静蘭も邵可にはかなわないらしい。 「心配すんなって。静蘭のかわりに、何があっても俺が守るからさ。約束する。姫さんを助けるのが俺の仕事だからな。俺ってば静蘭より強いし」  絶対の自信。燕青の姿を見たときも思った。傍にいてくれるだけで何もかも叶《か左》う気がする。 「燕青、どうしたの。ちょっとカッコいいわよ」 「何−?|今頃《いまごろ》俺の魅力《みりよく》に気づいたのか。ちょっと遅《よ・て》くねぇ?」  燕青は秀麗の|廟《びょう》に手を回すと、自分の腕《う千》に腰掛《若り》けさせるように高く触《ごー》き上げた。 「……なあ姫さん。柴彰とこの桂里に駆《か》けつけたらさ、びっくりすんじゃん。俺らが欲しかった薬とか食糧《しよ/ヽl、り卜売一一つ》とか物資とか、たっくさん積んだ馬車がぞくぞくと駆け抜けてくんだもんよ」  秀麗をのぞきこむように、燕青は首を傾《かたむ》けた。 「皐尚の医者かき集めて、治療法《ちりょうはう》見つけて、全商連動かして、禁軍も動かして、あーだこーだ文句つけるお|偉《えら》いさん振り切って、文字通り全速力で飛んできてくれてさ」 「……悠舜さんが助けてくれたからよ」 「悠舜に何ができて何ができないかくらい、俺だってわかるぞ。そうやって茶州のために頑張《が・八イ‥》ってきてくれたのに、ごめんな。嫌な思いさせちまったな。みんなちょっとわけわかんなくてオロオロしてんだよな。……これからもちっとばかりすると思う。|勘弁《かんべん》な」それを知った上で、秀麗は駆けてきてくれた。泣かなくても、傷つかないわけがないのに。 「何がいちばん嬉《うれ》しかったってさ、危ない目に遭《ち》うってわかってても、姫さん自身が飛んできてくれたことと、あと、禁軍の派遣を止めてくれたことだよ」秀麗は、ぼさぼさでも日向《けなた》のにおいのする燕青の雇に、こつんと額を埋《∴ノず》めた。ちくちくとした髪の感触《九l人しよ・、》と、直接頭に響《!?lげ》くような|優《やさ》しい声に目を閉じる。 「そりゃまあ�殺刃賊《さつじんぞ.ヽ》″みてーな馬鹿たれがよく暴れ回ってて苦労したけど、ちょっとずつマシになってきて、ようやくゆっくり|眠《ねむ》れるかなってとこまできてたからさ。どんな名目でも、武器もった軍馬がドカドカ押し寄せりゃあ誰《バー信》だって脅《お・・》える。特に茶州は今までが今までだしさ。それに、こんなんでも、茶州は俺が生まれて、家族と暮らした、故郷だからな 「燕青にとって、茶州は複雑な思いがある場所だ。今は亡《な》き家族と暮らした忘れ得ぬ大切な思い出と、その全員を惨殺《ぎんさつ》された|記憶《き おく》がともに眠る地。″殺刃賊″を追いかけ、自らの手を汚《よご》して遂《しー》げた復讐と憎悪《バ∵、Lル∴ノそうお》。南老師《左人ろ・りし》に静蘭、茶鴛泡、悠舜、茶州官と出会い、駆け回った十年。                                                                                             lーノ  すべてのー記憶と心が、この大地に《オ》詰まっている。  だからこそ燕背は州牧を引き受けた。自分にとって、茶州《二−1》は、かけがえのない大切な故郷。 「やっぱさ、ヤじゃん。生まれ育ったところを踏み荒《ち》らされるの。特に野郎《やらlJ》ってのはちょっとイイ感じの木の棒拾うと、あっというまにチャンバラごっこLがたるイキモノだからな!…‥んな元クソガキ集団が剣《けん》もってうろうろすんだぞ。怖《こわ》いっつーの。……みんな、ずっと怖い思いしてきてさ。これ以上ビクビクさせると、心が壊《こわ》れちまう。だからてっとり早いってわかっても、俺も州営も、できる限り州軍は派遣させたかなかった。戦わなくてすむなら、そのほうがずっといいじゃん?後始末大変だし、大体病気なんとかすんのが先決だしさ。うん?何言いたかったんだっけ。まあとどのつまり、アレだ」燕舌は照れたように鼻の頭をこすると、とん、と秀麗の背を叩《ト∵だ》いた。 「みんなに、怖《‥》えー思いさせないように一生懸命踏《けんめいふ》ん張ってくれて、ありがとな。すげぇ嬉しかった。体張って、俺の故郷を守ってくれたんだな。州官たちも、彰も、春姫《しけ人ヽ、》も丸ごと全部」 「……つ。ぱかぱか燕青。優しく、しないでったら!」秀麗は歯を食いしばると、八つ当たり的に燕青の無精《バしょう》髭を引っ張った。  泣かないって決めたのに、燕青は母のときと同じように、簡単に心を崩《くず》してくる。  まだ何も終わってない。こんなところでめそめそ泣くわけにはいかない。  多くの人が亡くなり、今も先の見えない不安と病に苦しんでいるのに。 「本当に、私のせいかもしれないんだから……!」 『千夜《せんや》』という名前。秀麗だけを呼び寄せるような噂。《うわさ》もしかしたらという想《おも》いは消えない。  燕青もまた、秀麗が『誰』のことを考えているのか、手に取るようにわかった。  けれど、燕青はあの男についてはあえてUにしなかった。  あの男についてあれこれ考える前に、秀麗にも燕青にも、すべきことがある。 「で、燕青。虎林郡に行く前に頼みがあるんだけど」  秀麗はなるべく|普通《ふ つう》を装《よそお》って告げたが、燕青は惑《まど》わされなかった。 「それって、静蘭をわざと置いてけぼりにしたことと関係あるやつフ」 「……ぐ、あ、あるわ」  とっくに見抜《みぬ》かれている。よろめきながらも、秀麗は自分の日から、ハッキリ言った。 「−私の首が必要になったときは、燕青−遠慮《・えんパ∵よ》なく、やってちょうだい」  燕青は目をすがめた。  秀麗がそういうだろうことは、�邪仙教″の吟を聞いた時点で予測がついた。静蘭を置いてきたことで、半ば確証になった。|驚《おどろ》きはなかった。問題は−。 「……あの奇病《さげよ∴ノ》って、姫さんが生まれるずーっと前からあって、姫さんが死んでも一人も治らないって、知ってるよなっ」 「わかってる」�邪仙教�によって問題の根に秀鹿自身が組み込まれた以上、自分が虎林郡に飛ばねは、根本的な解決にはならない。そうでなくは、この先何度でも同じことが起きる。だからきた。  秀麗自身が、誰の目にも見える場所で動き、この件に終止符《しゅうし・J》を打たなくては、終わらない。  けれど、それが、治療に|影響《えいきょう》することがあってはならなかった。 「でも私が行くことで、望まない事態になる可能性はあるわ。たとえば、奇病の原因は絶対に私で、だから何が何でも、私自身が死ななくちゃ|駄目《だめ》だと思って|譲《ゆず》らなかったら」  病の原因でなくても、秀麗のせいで治療が手遅れになったり、お医者さんを信用してくれなかったりしたら、何にもなりはしない。  ギリギリまで、説明も説得もする.。けれど、最後の最後、秀麗という鎮静剤《�∴り−∵ナ.》が、必要にならざるを得なくなる時がくるかもしれない。そのlときの二覚悟�  −静蘭には、無理でも。  燕青なら、と思ったl。燕青なら、やってくれる。                                                                                                                                                                                                    −     一  し                                                                                                                                        ...‥−. 「燕青のいち、ほんの仕事は、私を守ることじゃないでしょう?茶州の一州《.1.》封《,l・.′》だものlL燕青は溜息のかわりに、軽く日を閉じた。 「∵じゃさ、姉《いめ》さんはこう言うわけだな。邵可さんとか静蘭とか、影月とか香鈴《二11り・れ》嬢ちゃんとか、季侍郎《ーしろう》さんとか藍将軍とか、その一他人勢いる、姉さんの土と好きな奴《や 「》らのl恨《・∵J》みつらみも憎《にく》しみも、全部背負って姫さん殺して、俺にこれからの人生生きろってさ。静蘭には無理だから、俺にその役やれって言うわけだよな。そういうこったよな?」突《つ》き刺《さ》すような声音《二わわ》に、さすがに秀麗の顔が強張《二わけ》った。  |瞼《まぶた》を押し上げた燕青は、揺らがぬ双肝で秀麗の答えを待っている。  秀麗は震《ふる》えた。燕青は、本当に容赦しない。決して妙《ノ.上う》な感傷に流されたりしない。  だからこそ、秀麗もこの場で、覚悟を決めなくてはならなかった。もう、猶予《h�一−ノよ》はない。 「11−ばお願い。今のところ、燕胃しか頼める人がいないの」  長い長い問、二人は見つめ合った。  ……そうして、燕青はひとつ、|溜息《ためいき》を吐いた。  �……なー姉さん、夏に一緒に墟壇《二れ人》に向かってたとき、俺が言ったこと、覚えてるか?  「工に立つ者は決して二者択一《たくいlつ》をしないことしってやつ。一か八かの賂《小け》はするなって」 「あ……ええ。覚えてるわ」 「そのとき、姉さん『いつだって次善の策を考えろってことね』って言ってさ、俺、ハ∴スレじゃわーけど満点でもないって言ったよな。すーっかり忘れてたけど、満点の答え、今ここで言えるか? 機会は一回こっきりだ。言えたら、それ、引き受けてやるよしやわらかな声音のなかにある、研《レり》いだ刃のような鋭《寸るど》さを感じて、秀麗は息を呑《l〕》んだ。‖だけの薄《.っ.一・》っぺらな覚悟やもっともちしい言葉で人を左右することを、空目は許さない。  今までの彼は、秀麗の未熟な部分も含めて州牧として受け入れてくれた。欠けていれば補い、足りなければ教え、一州の州牧にはありえない∵」れから努力します‥に日をつぶり、上司として認め、支え、輔《h一・・》けてくれた。満点の答えを言えなくても侍ってくれた。  けれど、今このとき、昌九璧《かんべさ》』になれと、燕青は無言で突きつけた。人生を背負えと命じたのだから、その価値のある上司であることを、今この場で示してみろと。  聞違《上ちが》えても、おそらく燕青は変わらずに補佐《圭さ》してくれるだろう。秀麗が上司にいる間は今ま  でと同じように『お守《も》りLをしてくれる。ただ心の中で見切りをつける。  燕青は|優《やさ》しくて厳しい。これが最初で最後だと、直感した。  ……合ってるかどうかほわからない。夏の答えとは少し違《ちが》うのは確かだ。寸時のように短い州牧のなかで、まだそれ以外の答えは見つからない。間違っていても、一つしか答えられない。  アー⊥最善の、策が、ダメだった場合……」 「うん」 「次善の策は考えない。その場に応じた次の最善の打つ手を考える。失敗を超えるくらい」  ハズレかもしれないという思いで、語尾《ご〜√》が尻《しり》すぼみに消えた。とりあえず王都で悠舜と立てた奇病対策では、次善の策など論外だった。最善でなければ大量の死人がでることが確実だったので、無茶苦茶でもそれだけを選んで押し切った……つもりだ。  感情を|綺麗《き れい》に消している燕青の表情からほ、何を思っているかはまるで読み取れない。  やがて、燕青はうつむくように睫毛《よつげ》を降ろすと、深いー深い、腹の底から息を吐《ょ》いた。空いている右手で不揃《・バぞろ》いな|前髪《まえがみ》を乱暴にかきあげる。 「……そんじゃ、姫さんにとって今回の『最善』ってなに?」  秀麗ほ唇《くちぴる》を引き結んだ。目を閉じれば、父や静蘭や�劉輝の顔が思い浮かぶ。  �蕾″《つぼみ》の智が揺《かんぎしゅ》れる。指先に〓づけられた劉輝の唇は冷たく震《ふろ》えて。……それでも最後まで、決して『行くな帖と言わなかった人。 『……待ってるL  大切な誰《だれl》かを喪《うしな》うのは、つらい。だから|被害《ひ がい》を最小限に留めようと、武官を残らず排《◆{↓》した。  けれどその仕事のためた今の秀麗こそが、大切な人たちの心を振り切って、ここに在る。  秀麗にとっての、最善はこれしかない。 「−守《ヽ》れ《ヽ》る《ヽ》も《ヽ》の《ヽ》は《ヽ》、全《ヽ》部《ヽ》守《ヽ》る《ヽ》、よ。もちろん、私自身もよ。そのために全力を《つ》尽くすわ」  信じて待ってくれている人たちがいるのに、簡単に命は差し出せない。秀麗が逆の立場だったら烈火《〜lつか》のごとく怒《お二》るに決まっている。そううかめるものはつかめるだけつかむ。 「生きて、帰るわよ、燕青。そのために力を貸してちょうだい」  燕青の、鋼《はがね》の意志を宿す黒檀《二くた人》のような深い眼差《まなぎ》しが、嬉《うれ》しそうにとろけた。 「−わかった」  最初から死ぬことを考えている上司など、燕青は決して信用しない。どれだけ力を貸してもいつすべてを無責任に放り投げて死に逃《に》げるかわからない。それなら輔《たす》けるだけ無駄《むだ》だ。   けれど秀麗は、そんなことは考えないと、告げた。その上でさっきの言葉を言ったなら。 「……それでもそ《ヽ》の《ヽ》と《ヽ》き《ヽ》がきちまったら、もうそれしか残ってねぇってことだよな」   官吏《カんり》として、命を賭《か》けるべき時は絶対ある。最善の手を全部打っても、できること全部やっても、逃《のが》れられない運命が巡《めぐ》ってくるときもあるだろう。預かった多くの命を守るために、治める者としてできることがそ《ヽ》れ《ヽ》しか残っていないのなら、燕青の答えはひとつだ。 「わかった。静蘭には無理でも、俺ならできる。してやるよ。上司が最後の責務を果たすのを助けるのは、補佐《おオl》の役目だ。約束するよ。今回、もしそんときがきたら、誰にも|邪魔《じゃま 》はさせねぇ。静蘭殴り倒《なぐ・+・だお》してでも、俺だけは、最後まで姫さんを官吏のままで《1ヽヽヽヽ1》いさせてやるよ」  まるで逢瀬《おうせ》の約束のように優しく。愛撫《あし.ぷ》するように、秀麗の細い首に手を添《そ》える。 「いいよ、姫さんの人生、俺が丸ごと引き受けてやる。静蘭に一生曹《●−1く》まれて追っかけられることになっても、−姉さんの首、ちゃんと俺が王様と邵可さんに届けてやるから」  燕青は左腕《!?−だりうて》に座らせていた秀麗を地面におろす。秀麗は|目眩《め まい》を感じて額を押さえた。 「……ね、ねぇ燕背……いま、いまなんか|凄《すご》いこと……言わなかった?」 「姫さんが先に言ったんじゃん。もしものときは最期よろしく、あなたにしか頼《たの》めないのうて。おお、考えてみりや凄いぞ。俺、もしかして静蘭より愛されてる?」 「……だってねぇ、静蘭だと私に似た女の子の死体用意してまで追走《し 「八一一こ」》しそうなんだもの……」 「あっはっは、やるやる! 絶対やるって。あいつはもー、ほんっと盲目《も∴ノ一tJ′1》だからなー。けど」  自ら赴《巨‥一�h�》くかわりに、燕青に�子将″を託《∴く》した静蘭。その意味は燕青だけが知る。 「だんだん目が見えてきたよなー7−それでも、さっきの件は静蘭には永劫《えいごう》不可能だ。だからこそ秀麗は燕青に頼んだ。それでいい。何が何でも秀麗を守ろうとする者は必要だ。最後まで秀麗を官《ヽ》吏《ヽ》の《ヽ》ま《ヽ》ま《ヽ》で《ヽ》いさせてやれる                                                                                                                                          、ノのが、燕青しかいないように。自分と静蘭で、ちょうど《〆》釣り合いがとれるというものだ。 「州府は心配すんな。若才《めいさい》も帰ってきたし、もともと俺が州牧のときもフラフラしてたから、みんな免疫《めんえさ》あるしさ」 「……全っ然|自慢《じ まん》になってないわよ燕青」 「はっはっは。��最後、影月のことは聞いてるな?」  秀麗は硬《かた》い顔をして領《うなず》いた。  道中、茶州から飛んできた早馬から受けた報。《し∴∵り】》  ー影月が、一人で柴山に分け入ったまま、|失踪《しっそう》。  開いたときほ、頭が混乱してまるで事態がわからなかったが、冷静になればその意味は一つ。 「……�邪仙教″の目的は、私だけじゃなかったってことよね」 「姫さんの情報ばっか突出《しuつし沌lつー》してたからな。まったく、やってくれたよな、こんちくしょう」   さすがの燕青も天を仰《あぶ》いだ。   −慎重《しんちょう》すぎるほど慎重な影月が、病人を置いてまで、たった一人で、山に向かった。   あのいつでも落ち着いて責任感の強い影月がそんなことをするなどただ一つ、何らかの無《ヽ》視《ヽ》できない理由《11ヽヽヽヽ》で、誰かにおびきよせられた《ヽヽヽ1ヽヽヽヽ111》からに他《はか》ならない。つまり!。 「�邪仙教″の目的は、姫さんと影月の二《ヽ》人《ヽ》だったってこったよな、くそったれが……」                                                 とトーノ   秀麗の噂を隠《 り! 、》れ蓑《1一レ》にして。   早く−一刻も早く、行かねはならなかった。   まず病に打つべき手を打ってから。そして口柴山へ。 「影月くんを、迎《むか》えに行きましょう、燕背」 「ああ」          薄騎馬   l小�  気が狂《くる》いそうなほどの激痛に耐《た》え、辛抱強《しんぼうづよ》く杭《くい》を打ち付けられた左手を動かす。じりじりと、少しずつ、穴は広がっていた。  うつむいた鼻の頭を伝って、ぼたぼたと脂汗が《あバらあせ》したたり落ちる。  気絶と覚醒《かlノ、せい》を繰《く》り返しているうちに、時間の感覚はとうに失っていた。  |蝋燭《ろうそく》がいつも同じ長さで灯《とも》っているのを見るにつけ、早く『影月《じバん》8−.の気でも狂わせて、一刻も早く陽月を手中にしたいという思いがあるのかもしれなかった。 (……は……残念ですね……)  影月は唇の端《くちげるはし》を皮肉にゆるめた。  何がなくても、生き汚さなら国でいちばん貪欲《どんよ1、》な自信がある。  たとえ誰に『不要《い・りない》』と言われても。  ……目を閉じれば、愛する人が思い浮《、つ》かぶ。  一人は、別れ際《ぎわ》に泣かせてしまったから。……悲しそうな顔しか、現れてはくれない。  それでも、彼女の姿は影月の心に春の雨滴《うてさ》のように優しく染《し》みこみ、慰《なぐさ》めた。 (どうか……幸せに……)  笑顔《えがお》が見られなかったことだけが心残りだったけれど、過ごした時間は持って行ける。   そして、もう一人!。                                                                                                            ヽ一ビJ   そのとき、かつーん、かつーん、と誰かの足音が響《 「一Jlー》いてきた。  影月の眼差しに炎が《ほのお》宿る。   足音が洞穴《ほ・リムな》に入ってくるのと、影月が顔を上げたのは同時だった。 「……相変わらず、怖《こわ》い顔で迎えてくれるね、影月」   その男は影月に近寄り、頬《ほお》に優しく触れた。 「私のかわいい子供」   かつて華眞と呼ばれていた男は、にいつと笑った。                      縛      れ  那襲   《ュ甘げ》いー                                                                         ゅ憮軍ノ.  |執務《しつむ》室で受けた一報に、虎林《こnリん》郡を治める柑《ヽ.》太守はくっと目を見開きー次いで|椅子《いす》を蹴立《けた》てて立ち上がった。自ら馬を駆《か》り、郡城を走り出る。   身も|凍《こお》るような寒さの中、丘《おか》の向こうから小さな影がぽつんと見えた。   護衛武官を引きつれて駆けると、丙太守に気づいた先頭の小さなー本当に小さな人影《ひとかげ》が、誰かを引きずって霜《し一U》を蹴り、駆けてきた。丙太守の孫のような歳《トl一し》の少女と少年だった。   寒さで顔を真っ赤にしながら、少女は丙太守に走り寄り、ぺこりとお辞儀《じぎl》をした。 「あの、すみません! 病気を治しに、あたしたちの村−石集村にきてくれているっていうお医者さんたちって、今どのあたりにいるか、知ってますか!?」                                                                                                          .ノ  下馬しながら、丙太守は息を呑《.J》んだ。  視線を上げると、丘の向こうからぽつぽつと、細長くつづく列が見えた。 「……まさか、石集村から、ここまで−?」 「はい! みんなで、助かろうと思って、きました!」 「意外とみんなしぶとく生き残ってるんだよな」  …lうわー! ちょっとシュウラン、リオウ! 待って待ってそのかたはー!」  慌《∫∵2》てたように二人の−あとを追って駆けてきた三上半ばの青年の顔を、丙太守は知っていた。  影月につけて石集村に飛ばせた、両太守のl信頼《L人∴lい》する州官の一人だ。 「あ、あれー……文《・ht�》より宛に着いてしまったとは……。その\この子が、医師団を待ってるだけじゃダメだと、実に有意義なことを言いましてひ村の全員と話し合い、実行に……」丙太守の一傍《∴・.‥》に控《ヘノ�》えていた護衛武宮の一人が、ぎょっと丘の向こうを見た。 「ま、まさかきあの村の病人引き連れてきたのか!?」 「え、そ、そりゃそうですよ。病人がいなくてお医者さんだけいてどうするんです」 「ばっーふざけるな! ここまで病が広がったらどうするー」 「朱温《し時おA》! 人から人には伝染しないと繰り返し言ってあるだろう!!」  丙太守はカッとその武官を睨《——_j》み付けた。 「はーいえ、しかし、万一−」   なおも言いつのろうとした朱温を日で|黙《だま》らせ、青年官吏《み∵八り》に向き直った。  二…‥杜州牧が失踪したのをそのままにして、きたのか?」   青年官吏は少し気弱そうにもごもごと−けれどハッキリと言った。 「は、はい。石集村での柾州牧を見て、そう判断しました。もしいらっしゃれば何を真っ先に優先しろと仰《おつしゃ》るか1|間違《ま ちが》ってはいないと、思っています」  彼の少し囲い顔には一片の蹟躇《ためら》いもなく、ぽつぽつと連なる荷車の列を振り返る。 「送ってくださlつたものは、医者も薬師《くさlし》も紺肺《−りし》も物資ももてるだけもって購蛤返《と・九げlがえ》りさせていただきました。運び役の全商連の方々及《およ》び、丙太守の派遣要請《H!?人よlぅせい》を受けていた武官も遠慮《えんりょ》なくご協力いただきまして。そのー、私の独断で、道すがら全商連に近隣《き人り人》から暖房《だFれイ∵′》用品の買い付けを片っ端《こし》からしていただいてしまいまして……その、ツケで。職分を超《二》えているとはわかっています。あとで州府に謝罪Lに行きます。舌になっても構いませんし  ただの一官吏である彼が、自分の首をかけて、権限にない無茶をしてでも、動いた。  丙太守はじっと見上げてくる二人の子供を見つめた。   瞑目《山い一い」・、》しー頬にあたった凪が通り過ぎるまでに心は決まった。l 「! わかった。一人残らず郡城に迎え入れる」   先ほど怒号《どごう》を上げた朱温という名の武官が、髪《かみ》を逆立てた。 「太守! |冗談《じょうだん》じゃありませんよ!!こんな病人を衛へ入れるなどとんでもありません!! 城下の民《たみ》が承知するわけないでしょう。俺の郷里じゃ、|妙《みょう》な病持ちはさっさと村から追い出してましたよ! そうですよ、まったくこんな病人ども、村ごと焼き討《ーr−ノ》ちすりやあそれが一番——」丙太守が剣《けん》を抜《ぬ》く前に、朱温は殴《トlこ、》り飛ばされて落馬し、某気《あつけ》なく気絶した。 「……除名し、虎林郡から追放しておきます。丙太守がお手を汚《よご》す価値はございません」  丙太守のいちばん傍に控える武官が、朱温を打ち払《ほ・りl》った剣を腰《こし》に収めた。 「……太守、そのお志はご立派ですが、紅州牧の一件でただでさえ城下の民は気を張っております。このうえ、病の者を受け入れては一触即発《∵一しよ′1そくはつ》になる可能性があります。多くの民は、いくら太守がご説明申し上げても、朱温と同じように聞く耳をもちません」 「私と君の仕事は——職務は、なんだったね?何を守るのが仕事だ?」                        l、ノーJ ーJ丙太守の脳《−しー1.》裏で、ただ一人で駆けてきた杜州牧の姿がひらめいた。 『秀麗さんは必ずきます。誰《だわ》が何と言おうと、必ずお医者と薬を伴っ《し�リhへl》て王都からこの虎林郡へ向かってきます』揺《ゆ》るぎないその信頼に、彼女は応《こた》えた。  続々と届きはじめた全商連の荷馬車。大量の薬に物資。国の最高医師団派遣《は!?ん》の報。《しらせ》誰もが絶望していた治療法《ちりようはう》まで携《たずさ》えて、彼女は半月足らずで駆けてこようとしている。  それを知ったとき、冷静さを買われて太守に抜擢《げってき》された自分の目頭《めがしら》が、涙に濡《なふだぬ》れた。  虎林郡を預かる身でありながら、何も�何一つできずに、守るべき民がただ死んでいくのを見ているしかなかった。指揮を執《1.r】》りながらも自らの無力に絶望していた丙太守に、最初に光  を差したのは十四歳になったばかりの州牧。孫ほども歳の違《ちが》う彼が決然と馬で駆けてきたのを見たとき、日では何と言おうと、……老いた胸に、熱い想いがこみあげた。   正直、治療法がないと知ったとき、朱温の言葉を|覚悟《かくご 》した。石集村ごと隔離《⊥り・、り》し、病人や家族、救命に向かった医師もろともに火を放てと命じられることを。それがもっとも簡単かつ早期に流行病《はやりやまい》を収束させる手段であり、今までにその手段を選んだ太守は数多い。   治める者として、その決断が間違いであるとは言わない。おそらく燕青や悠舜ほ最後の手段として念頭に置いていただろう。けれどーその単《ヽ》純《ヽ》な《ヽ》最《ヽ》終《ヽ》手《ヽ》段《ヽ》を、あまりにも安易に使ってきた高官は多すぎた。だからこそ、ますます寒村は閉鎖《へいさ》的になり、上を信用せず、祈《いの》り、時には村ぐるみで病人を一家もろとも始末し、役人にひた隠《かく》しにした。今回の病が長年表に出なかった|一端《いったん》もここにある。   うつむき、寒さにひび割れた唇《′\ちげる》をかみしめて泣くのを堪《こ・り》えている少女を見る。   彼女たちは、初めて、自分たちを信じてくれた。   届いた物資。人手。医者。治療法が見つかったとの報。見捨てられていない、助けてくれると思ったから、必死でここまで歩いてきた。二人の州牧がつないだ希望の糸にすがって。   この、想《おち》いに、応えられなくてどうする——−完 「もう一度命じる。彼らを受け入れる。全員だ。使われていない西の一郭《∵、.ノシ・、》を開放する。すぐに   ‥ト  ーr武《▼》《 −》吏武官を動かして準備及び、彼らの入城を助けるよう。また城下の民に繰り返し正確な情報を伝えなさい。人から人への伝染はない。彼らを受け入れても、城下で病が流行《はや》ることはない。  だが念のため、煮沸《しやふつ》とこまめな衣類の洗濯《せ人たく》を徹底《こつてい》せよ。−彼らは、同じこの虎林郡の民だ」  武官は、微《かナ》かに笑《え》み、両手を組んだ。 「−御意《ぎよい》。ご下命、謹《つ 「し》んで承《う!?た主わ》ります。……丙太守、つまらぬ話ですが、私の母は病の違いで山に置き去りにされ、子供だった私が助けに行ったときには、野犬に食われて死んでおりま                                                                                                                                                  ヽ−・——した。私情ではございますが、いまのご決断……嬉《.1》しく存じます」すぐに馬首を返し、対処に当たりはじめた武官たちに、膏年官吏はようやく瞳を和《いとバ�ご》ませた。 「……あの、太守、各郡府及び茶本家にも、全面協力を求めませんか?一 「……茶家にフ」 「そのlう、できることほするべき美と、思うんです。茶家のl影響力《・Jヘト\−トト∴ノ〓りし⊥ノ、》はとても大きいですし……ベ、別に、頼《∴バ》むだけ頼んだって、無駄《上バ.》じゃないですし。もし受けてくれたら、ずいぶんと助かります……よね。あの、僕が、墟樋の茶本家に行っても構いません」客観的な視野と慎重《」んらよう》さ、芯《し∴》の強さ、与《わ�》えた職分をきちんと理解し、全《fれノす二》うしてくれる彼を、丙太守は信頼していた。だから影月にもつけた。まだ若いせいか、自分から何かを進言することはなかったが、いずれ年輪を刻んでいけば、きっと良い官吏になってくれると期待していた。  けれど彼は、このほんの短期間の経験によって、その年輪を言弟に飛び越《二》えた。 「良い案だ。だが君には虎林にいてもらわなくては。私が茶家に文をしたためよう」  彼はホッとしたように肯《・リhlネード》き! 次いで、翳《かげ》りのある顔で、シュウランの頭を撫《な》でた。  ′ 「これから大変です…ね、丙太守。さっきの朱温殿《ごの》の言H葉は、そのまま街の人々の声です。いくら説明につとめても、納得《たつし」ノ、》してくれるわけがありません。何が起こるか……L 「それが、私と君のー仕事だよ。虎林郡のすべてを丸ごと、守ることがな」  シュウランが躊躇いがちに絡《か・り》めてきた手を、丙太守はしっかりと掛《二∫》りしめた。   その隣《となり》で、リオウがふっと漆黒の双輝を、秀麗たちがくるという方角へ向けた。   証もいない右葉村に、香鈴はた《ヽ》だ《ヽ》一《ヽ》人《ヽ》で《ヽ》立っていた。  ー三に来る|途中《とちゅう》、色々な|噂《うわさ》を開いた。医者に混じって働いていた十三、四の少年が、石集村で失踪《Ll−.・J‥リ》したというのもその二つだった。無人になった右葉村から虎林城に進路を|変更《へんこう》するという馬車から飛び降り、乗せてくれた商人の制止を振り切って、香鈴は|凍《こお》る道を何度も転倒《てんとう》しながら駆《ノ‥.》けて、ここへきた。   香鈴は一人、深く息を吸うと、寒々しく吹きすさぶ風に逆らい、キッと顔を上げた。    ーもう、いい加減涙は枯《なみだJり》れ果てていた。   いつだって勝手なことばかり言って。一緒に来てくれとも、あのひとは言わなかった。 (もうわたくし、待ちませんわ。何一つあんなかたに期待なんかしませんわ)   望みのものは、自分でつかみに行く。いなくなったのなら、さがLにいく——日工  そのとき、背後から誰かが近寄る気配がした。 「……お前が、女州牧ってやつだな」  振り向く前に後頭部を強い力で殴《なぐ》られ、香鈴は気を失った。  寺甘骨苦手惹∴∵二.∴                                          .rノlUl.1禦ノ声J呵−H.1−日1−1、封1HJバ——1・・−4−壇咋バHlJはLl‥LトllLL�−?  l、りパヨ—— 「‥▼lrつHlH・・叫・・バll−1う7−1一! 1−一   往里関塞《か人さい》を通って茶州入りした秀麗たちは、明日には虎林城につくところまできていた。簡単な夜営で夕餉《時うげ》をとり、仮眠《かみん》をとったらまた出発になる。 「練習が必要じゃな〜」   ポッッと葉医師が|呟《つぶや》いた。   そばでは、連れてきた医官たちが今日も今日とて全商連から届いた食材のモ《ヽ》ト《ヽ》をさばいている。数十人の医者たちが口々食事時になると目を血走らせ、片っ端から食肉解体作業にいそしむ光景は一種異様であった。  最初にこの光景を見た燕青は、 「え、医者っ・なあホントにみんな医者? 腕《うで》っこきの魅丁《りょうりにん》軍団とか修行中の山伏《やまぷし》の卵とかじゃなくて?」と何度も秀麗に訊《き》いたものだ。 「練習って、でも皆《みな》さんかなり士達してると思いますけど……どれも締産《されい》に切り分けられて、料理するのもかなり楽になりましたLL  バラしたあと美味《おい》しく料理するのが役目の秀麗は、嘘偽《∴ノそいつわ》りなくそう評価した。                                 ——フ�lう 「むしろ、切開のあとの縫《,1.》合……でしたっけ、そっちのほうが要練習だと思いますよ。まだはとんどの皆さんが縫《山》い目ガタガタで全っ然見れたもんじゃないじゃないですか」  嘘偽りのない厳しい評価に、切開練習をしていた医者たちはビシッと|凍《こお》りついた。  そうー切りlまくっていた医者たちは、そのあと縫いまくれと言われて一様にその欠点に気づいた。生まれてこのかた針仕事などしたこともない彼らは、針に糸を適すのさえ、秀麗からすればありえないくらいにモタらいていた。いわんや縫い目をや、である。                                                                                                    1..−J  1やー、しかし縫うより切るほうがやっぱ遥《lr−1′》かに大事じゃからなー。多少縫い目がへソでも、とりあえず中身がはみでなけりゃいいわい。後で宴会芸《∴んかいJ∴》で笑いとれたら儲《一? J》けもんじゃし」  焚き火の▼火種を作っていた燕膏は、本のl股《をJた》から年のl丸焼きが転がり落ちたような顔をした。  いくら牛好きな燕青でもちェっと胡《・、..\》散臭《、1ヽヽ.》いわけである。結局食べるにしても。 「:‥なあ姉さん、このlじいちゃん、すげぇ医者なんだよなっ・バチモソじゃわーよなっ・」 「こるぁ十文字髭吉《い」1う一�読−!?∴∵さL》−⊥バチモソとはなんじゃ1‥」 「もう《.1−》剃ったのになんで髭吉! ちくしょうマジで姉さんがくる前に剃っときゃよかったL           しけ∴/し∴∴Lをトドげたl′ 「じゃー常文字元髭太郎上                                   ・ 「・一 「…………く、くそぉ…………なんかお師匠《LLよ、つ一》に通じるもんを感じるぜ……」  つまりは、どんな言葉も暖簾《Jj才tん》に腕押《うでお》し糠《訂ノり》に釘《くさ》。会うなり妙な渾名《あだな》をつけられた燕背は、|面倒《めんどう》がって髭剃《!?げそ》りを怠《お二た》ったあのHの自分を本気で悔《く》やんだが、もはや後の祭りであった。 「縫う方はちょっくら考えがある。じゃが切開がなー。人体での練習が絶対的に足りん。そも病巣の確認《げようそうん・、に・八》もせんままで、いきなり|小僧《こ ぞう》たちに生きている病人任せるわけにゃーいかん」   速度を優先したこともあり、貴陽を出てからここへ来る道すがら、そもそも人体切開ができる機会は数えるほどしかなかった。だが石葉村につく前に、実際病死した体で施術《せじ抽lり》の確認《んくに人》をしないことには話にならない。   葉医師は、理想に燃えてここまでついてきた医者たちをチラリと見た。 「……二番の問題は、大方が、嬢ちゃんより遥かに現実がわかってないっちゅーこってな.。嬢ちゃんは十年前の貴陽を見とるから、あんまり心配ほしとらんが……」  火をおこしていた燕膏がふっと視線を上げると、秀麗は小さく苦笑いしていた。   秀麗も葉医師も、千年前についてそれ以上言うことはなかった.。 「んーあちこち回って年季入ってるやつらならともかく、体力重視して若造選んだからのー。しかも大概《ム,一h.Jりl、》箱入りボン。……理想と現実は全然違う。実際やってみなくちゃわからんこともある。l自分がこれから何をするのか−何と向き合うことになるのか、石葉村に行く前に、ちっとでも人体切開の練習で肝据《さ一�トj》えてわーと、|邪魔《じゃま 》になるどころか、心が、壊《lわ》れる」  秀麗と燕青の酔日《ぴてつlまブ、》に気づくと、葉医師は晶の頭をちょいとこすった。  一……ま、見込みがありそーなのを、見繕《▼�l∴.‥∴.》ってきたつもりじやけどな……。てことで嬢ちゃん、虎林郡太守殿に、ちょっくら色々お願いの文を出したいんじゃが、凛嬢ちゃんの《ノ》伝手《,、》使わせてもらえるかいの」 「あ、はい。もちろんです 「  柴凛は現地での|特殊《とくしゅ》小月製造で、最後まで秀麗たちに同行することになっているため、茶州全商連の指揮は佳里関寒で弟の柴彰に引き継《つ》いできた。そのとき全商連の連絡《llん・りく》係を定期的に寄こす手はずをつけてきた。時に公的機関をも凌駕《りょうが》する商人の情報収集力と伝達網《もう》を遠慮なく借り、物資と情報を運んでもらう傍《かたわ》ら、各地といつでも連絡を結べる態勢を整えたのだ。  虎林城までなら、夜明け前には文を届けてもらえるだろう。   そのとき、少し離《はな》れたところで、まさにちょうどやってきていた全商連の連絡係から報告を受けていた柴濠が、|踵《きびす》を返して駆けてきた。 「……紅州牧、浪州声l、《し時うい人》いまいくつか新しい情報が届いたのだけどね」  |珍《めずら》しく、柴凌はどう言おうか蓬巡《し沌人じゆ人》し、理知的な瞳を|僅《わず》かに揺《ル》らした。 「……まず、春姫殿から。香鈴殿が影月殿を迫って、一人で石集村に行ってしまったらしい」  一拍《い 「はノ、》のち、秀麗と燕青はそろって声を上げた。 「! 一人で!?」 「……追ったことには|驚《おどろ》かないのだね。そう、一人で。春姫殿が彼女のために精鋭《せいえしh》武官の護衛を願いに州府に出向いている間に、荷物をまとめて一人で飛び出したらしい」燕青は難しい顔で|眉《まゆ》を寄せた。 「……なんで、そこまで急いだんだ?単に石柴村に飛んだ影月を追おうと思ったわけだろ。伝染《うつ》る病じゃないってのは教えてある。別に死にに行ったわけじゃねーんだから、行くにしても護衛待つくらいはできたはずだろ」秀麗はギクリとした。死《ヽ》に《ヽ》に《ヽ》、行《ヽ》く《ヽ》−。 『……そう遠くないうちに、杜影月がこの世から消えてしまうことを』   擢《カ 「.》州牧の声が、頭の中でゆわんとたわんで響《けげ》く。……秀麗が樺州牧から聞いたことを、香鈴は影月から南接告げられたのなら。  黒州の確州牧から聞いた影月の『寿命』《じゆみょう》については、燕青にも言えなかった。ただでさえ、病に″邪仙教″に�千夜″と、問題はこれでもかというほど盛りだくさんなのだ。影月に直接確かめるまで、秀麗の胸一つにおさめておこうと思っていた。∴…‥けれど本当は、心のどこかで|間違《ま ちが》いだと思いたくて。言葉にすれば、真実になってしまう気がして−。 「ただ、幸いなことに香鈴殿はちゃんと考えて出立してる。調べたら石集村に向かう全商連の荷馬車に、賄《まかな》い係として入っていてね。だから彼女の身の安全は心配しなくていい。……夏の、秀麗殿を思い出して|真似《まね》したのだろうね。冷静だよ、香鈴殿は」柴凛は秀麗の顔色の悪さを誤解し、安心させるようにちょっと|微笑《ほほえ》んでみせた。 「それに、もしかしたら香鈴殿とは虎林城で会えるかもしれないよ」 「……え?どういうことですか?」 「石柴村にはもう誰《だれ》もいない。村人全員−病人も含《;lく》めて! 虎林の郡城まですでにきているとのことだ。私たちが向かっているのを知って、少しでも早く|治療《ちりょう》を受けようと下山に踏み切ったらしい。丙太守は城下の猛反発《一Yつはんばつ》を押し切って全員城郭《じよ∴ノかノ、》内に収容、私たちの到着を待っているとの連絡《台∵八∴・\》でね。全商連の荷馬車も虎林城に進路変更するから香鈴殿も−」  秀麗と燕青の顔色が変わった。終わりまで待たずに勢いよく立ち上がる。 「−姫《!?lめ》さん、メシつくってる|暇《ひま》ねぇぞ。あの肉のー山どうする?」 「食べられる部位即行《そlノ:lう》で《 「》詰め込んでもってくわ。強行軍で駆ければ朝Rがのぼる頃《.1;ハl》に虎林城よ。夕飯は乾物《!?もlの》で|我慢《が まん》になるけど、体力勝負なんだからお肉置いてくわけにはいかないわ」 「やった、ちょっと元気でた。んじゃ俺は出立の準備にかかる。四半時で出るぞ」  竜巻《た 「をき》のように動き出した二人とは反対に、柴濠の話を耳に挟《. さ》んだ医師たちは果然《Jl▼Jげ人》としていた。.葉医師はぐりぐりと両のこめかみを揉《ち》んだ。……生身の血者《ノ∵八し高》と向き合う前に、病死した遺体で少しでも覚悟《ノl∵、.一》決めさせようと思っていたが−なかなかうまくはいかないものだ。   −ぶっつけ本番というやつだlU 「凍嬢ちゃん、すぐに文を書く。.到者までにしといてほしいことを書き出すゆえ、太守殿と先に向かわせてる薬師《・、1−》、鍬師《∴h∵一》たちに届けてくれい」  柴凛は余計なことを言わず、寸ぐに領《・∵7》いて早馬の用膏萎始めた。  葉医師は勢いよく医師たちを振り▼返lつた。 「−やるこたわかってるな? ・まずは自分の器貝、必要物品、全部即《一てく》使える状態でそろってるか確認《九lノ、に′八》せい。終わり次第《しだしl》、積んである消、絹糸、布、薬の残量を片っ端《はし》から書き出していけ。なんじゃい、そろいもそろって|魂《たましい》すっぽ抜《わ》けた顔しおって。は事とっとと動かんか」  若手の医師が生唾《トゝ←ユーノご》をのみこんだ。朝廷《�⊥うてム》医官を束ねる陶《し」・rJ》老師の弟子《てL》の一人だ。 「あ、のニ…‥葉医師」 「でーいうるさいー。ぐだぐだ言うな。時間ないっつ1とるじゃろ。考えるより動け!」  何を訊《\、》きたいかほわかっていたが、あえてその問いごと吹き飛ばした。どうせぶっつけ本番になるのなら、中途半端《ち? ? リとは人ほ》に不安材料は与《ムた》えないほうがいい。へンに悩《なや》みこまれても明日の朝には虎林城に着いてしまうのだ。解決するどころか堂々巡《しーうごうめh、》りのままに決まっている。藁《Jj・り》にもすがる思いの患者に、いかにも棺桶《か人お!?》用意してそうな顔の医者など、いないはうがマシだ。  相手にする病人を前にして、どうするか−覚悟を決めるか否《し.な》かほその場の当人次第だ。  決断が先にのびたことを感じて、当のl医官たちも一様にどこかポッとした顔をしていた。思い出したように慌《あわ》てて葉医師の指示通り動きはじめる。  葉医師は、明日、彼らの身に何が起こるか、正確に見通していた。  |溜息《ためいき》をつきかけ、そんな自分に気づいて|馬鹿《ばか》馬鹿しくなる。いったい自分は何をやっているのか−心のどこかで、|呆《あき》れと皮肉が入り交じる、|妙《みょう》に冷めた自嘲が落ちた。 「絶対、わかるわ。いつか絶対わかるから。くだらなくなんかない。賭《か》けてもいいわ』ふと、遥《はる》かなる記憶の水底《きおくみなぞ二》から、過去の欠片《か!?∴》が泡沫《彦オ》のように浮《う》かんできた。  無駄《もバL》に元気で、いつも笑っていて、落ちてるものは片っ端から拾って治しまくっていた女。 『|後悔《こうかい》はひとつだけあるけど、でもそれは別のlことよ。お医者になって、ガンガン突《J》っ走ったこの人生、全然後悔してないわ。生まれ変わったって絶対同じ道選ぶわ。絶対よh時の王に|処刑《しょけい》される瞬間、華郷《しけ人方Åカだ》は確かに自分を 「見てFlこ微笑んだ。lH私、人が好きよ。いつか絶対、あなたにもわかるわh黄《▼てり》葉は日を伏せた。……あれから、何百年ものl時が過ぎた。 「……全っっ然、わかんねうつーの、あのクソ女……」  その|呟《つぶや》きは風に掩《さlり》われ、夜目天《よぞら》に吸い込まれて、消えた。                                                 ∴.ーr、            ∴∵、・・                車素早や骨  症轟                                                ニー′   、ノ  それはまるで、泡《′丑r》沫《一一》のように。  少しずつ、確実に、大きくなる。口ごと募《�の》る不安と怒《しん》りを詰《ノ》め込み、膨《・〕、》れに膨れたその泡沫《あわ》は、もはや弾《はじ》け飛ぶのを待つだけにまでなっていた。  石集村の人々を城郭内に受け入れて、わずか数日。  慌ただしく街を駆《ノり》け回る者がいる一方、冷えて凝《:ご》った日でそれを眺《なバり》め、そこここで小声で密談する者の姿も日ごとに増えていった。  正反対に広がっていく温度差は、危《あや》うい均衡《さ人二う》が徐々《じよじょ》に崩《ノ、JT》れつつある証《あかし》でもあった。頁っ赤に熱された虎林城という陶器《とうヽも》の器《う 「わ》に、冷水が浴びせられる時は、刻々と|迫《せま》っていた。          す.−      ! 、ナ一  砕け散る。  ……その日、東の実《そ・り》が白むのを、虎林城は|奇妙《きみょう》な|静寂《せいじゃく》さをもって迎《むか》えた。  一番鶏《いちばんどり》さえ鳴かなかったことにも、丙太守はあとで気づいた。  丙太守は、一睡《いl∵了い》もせずに郡府にて政務を執《と》りつつ、ただそのとき《ヽヽヽヽ》がくるのを待っていた。  |執務《しつむ》の合間を縫《ぬ》って、窓からただ一点だけを見上げた。そして、何十度目かの顔を上げたと  き、遠くの城郭で小さくある旗が振られたのを、丙太守は見た。 「失礼いたします丙太守! ただいまご到着の旗が−太守!?」  間《ま》をおかずに駆け込んできた武官は、最後まで言うことができなかった。  丙太守は武官に構わず、室《へや》を飛び出した。郡府を駆け抜け、|叫《さけ》ぶ。 「馬をひけい!」  常に冷静沈着《お∵んらや′\》な丙太守の放心号《ごごう》に、その場の誰もが驚いた。丙太守は用意された馬に飛び乗ると、護衛武官がそろうのも待たず、手綱《◆トづな》を打った。  そして一路、旗が振られている城門を目指して、疾駆《しっ! 、》した。  シュウランはそのとき、自分たちに与えられた一郭《し√lnr.り.\》と、街の人々の居住区域を区切る石積みのそばをうろうろしていた。その石壁《ししかペ》は、シュウランたちが入城してすぐ、激しい拒絶《さよぜつ》反応を示した住人たちが独断で|急遽《きゅうきょ》積み上げたものだった。 (……あ、あそこにも見っけ)  最初にそれを見つけたのは偶然《ぐうぜ人》だった。石積みの|隙間《すきま 》からうっかり落としたのか、包みにくるまれて食べ物が落ちていたのだ。お腹《なか》がすいていたシュウランは、中に入っていたおにぎりが食べたくて仕方なかったが、一生懸命我慢《!?んめいが去ん》して、石積みの隙間に押し上げた。こうしておけば、落とした人がもし戻ってきたら気づくだろうと思ったのだ。  けれど少しして見に行くと、またもや包みは内側に転がっていた。しかも二つに増えている。  シュウランは考えたあげく、持って帰って自分以上にご飯を我慢していた村人にあげた。それから石積みにそって歩いていくと、あちこちで色々な認洛とし物帖を発見した。食糧《.し——人ノ1りよlつ》であったり、衣類であったり、温石だったりすることもあり、落ちものは少しずつ増えた。  シュウランはリオウにl二1ありがとう』の文字を教えてもらい、拾った石に初めて持った筆で一生懸命に書き、落とし物の近くのー石積みの隙間に置いておくようにした。石はそのままの時                                             ——�  .・.  もあったが、大概《′ノr,Jり 「,》は次の日になくな.っていた。それから明け方に落とし物を拾うのがシュウランの日課になった。  今日も今日とて落ちていた毛布を拾おうと、寒さにあかぎれた手をのばしたシュウランは、かがんだ柚子《ll・リ?」》に不意に涙《�▼ド》がこぼれかけるの−を感じて、慌てて仰向《ムおむ》いてぬぐった。  ……本当は、落とし物を拾うために早起きをしているの七はなかった。怖《一JJ》くて|眠《ねむ》れなくて、何かをしていないと、不安に押しっぶされて大声で泣き喚《ゴ4ば》きたくなるだけだった。  母の腹は、子供でも入っているんじゃないかと思うくらいに膨れていた。一(きっと鬼子《お号ご》が入ってるんだ)  父は、もっと腹が膨れて、そして死んでしまった。  影月や、来てくれたお医者さんが色々としてくれたおかげで、シュウランにもわかるくらい、冥官《みょうかん》の足音はゆるやかになった。けれどその昔は決してやむことなく、確実に近づいていた。  出歩く前、母は昏々《こ大二ん》と眠っていた。お月さんがまだ高くあがっているときに、お医者さんた  ちがたくさんやってきて、母に何かの薬を飲ませた。シュウランの母だけでなく、他の病気の人にも同じように、どこか緊張《ヽ! ∵��÷.・》した顔で次々と。 (あれ、もしかして毒で、殺されるのかな……)   シュウランはぼんやりと毛布のl前でうずくまった。  自分たちが虎林城の人たちにどれだけ嫌《セこり》われ、悼《二く》まれているか、シュウランはわかっていた。   石をぶつけられて罵《ののし》られることも、くる前からわかっていた。病気の人にはあっちに行ってほしい。伝染《.ノ 「》ったらどうする。死ぬのは怖い。それは当たり前の感情だった。シュウラソだって、最初は病気になった人には絶対近づかなかった。1——−両親が|倒《たお》れるまで。  みんなだってわかっていた。疎《.リトし》んじられるのを覚悟《九・.、.」》で、きた。助けてくれると思った。   でも、きっと|偉《えら》い人にも、どうしようもできないことがあるのだろう。   死んだように眠る母は、どこか幸せそうで。このまま、眠るように殺されるのlなら、これ以上苦しませるよりlずっと幸せじゃないかと、思った。 「……あたしも、ちょっとだけ、幸せだったもん)                          —— ーLT ー.J   されいな髭《一.1・? 1−》をはやした丙のおじいちゃんは、シュウランの手を振り払わなかった。   しっかりと、約束のかわりとでもいうように、|握《にぎ》りしめてくれた。   それだけでシュウランは、もういいような気がした。もう、みんな、《? 》疲《ノ‘.》れて1。   そのとき、不意に耳に飛び込んできた蹄《!?バノめ》の音に、シュウラソは我に返った。   自分が何を考えていたか−一瞬《いlつし沌′れ》でも母の死を幸せなんて思った自分に背筋が冷えた。 (ぱかぱかあたし! 何考えてるの)  蹄の音が、近づく。  シュウランは嫌《しlや》な考えを忘れようと、慌てて立ち上がり、膝|小僧《こ ぞう》をはたいた。何かに意識を逸《そ》らそうと、伸《・.り》び上がって石積みの隙間に顔を押し当ててみた。音はだんだん近づいてくる。  もの|凄《すご》い勢いで、石積みの向こうを一騎《き》が駆け抜けていく。それは口。 「……丙のおじいちゃん……つ・」  |鬼気《きき》迫《せま》る形相を垣間見《ざよ・りそ∴ノかいまみ》たシュウランは|驚《おどろ》いた。第一、この先には城門がひとつあるきりだ。 「……こんな時間に、どうして外に……?」  シュウラソは迷ったあげく、石積みのー隙間に体をねじこみ、丙太守の後を追った。                                              ∴ィ            、で                                                                                                                               ′J Jl  《′▼ノ》《バl′》《′》城門が、音を立てて閉まっていく。                         .——  秀麗を抱《◆′》いて馬を駆る燕青の、歯ぎしりの音が聞こえた。  虎林郡を守る城郭《じょうカ′1》で、旗が振られている。  |一斉《いっせい》に、城門の上で郡武官たちが矢を構えるのが見えた。  彼らは、誰《だれ》が来たかを正確に察し−そして、ためらいなく射殺を選んだ。  燕音は秀麗を強く抱き寄せた。ひときわ大きく手綱を打つ。 「凛、葉のじっちゃん、そこで待ってろ!!1姫さん、しっかりつかまっとけよー!」  秀麗に回して㈸た俄《うで》を離《はな》し、棍《こ大》をつかむ。  距離取りと威嚇《? ,・乃.、》を兼《有り》ねて、弓矢が降ってきた。  燕青は避《よ》けようともせずに、馬の|脇腹《わきばら》を蹴《ナ》った。次は狙《ね・り》いを定めての一斉掃射《そうしゃ》がくる。少しでも狙いを甘くするためと、閉まる門内にすべりこむために速度を優先した。 「うわっちゃー。こりゃかなりギリギリかも」 「燕青! 間に合わなかったらご飯抜きよ!」 「頑張ります。んっ・閉門速度が遅くなっ−んん!?」   燕青は風のように近づく城門の、そのまた奥を注視した。何か−くる�。   城郭の射手たちの動きがそろう。一斉に矢をつがえ、秀鹿と燕青に狙いを定める。   号令係が、発射の合図を出した−そのとき。  躊躇《ためら》うように急に速度が|鈍《にぶ》った門の、隙間からー何かが疾風《しつふう》のように飛びだしてきた。   それが何か気づいた燕青は、あんぐりと口を開けた。 「えええええーっつ!?丙のおじじ!?うわおい待て嘘《う・一て》だろ   −   つつ!?」   騎影《きえい》はまっしぐらに燕青たちのもとへ駆けてくる。つまりほ弓射の射程距離のド真ん中を。   単騎で駆ける虎林郡太守に気づいた号令係の制止の命は、間に合わなかった。   宙《あられ》のように矢が降り注ぐ。   敬愛する太守に向かって掃射してしまった配下たちが、何かを叫んだ。  丙太守と矢弾《やだん》の間にすべりこむように、馬が跳躍《しょうや‥》した。  秀麗は反射的に目をつぶった。  ふわりと、体が浮《ぅ》くような感覚。まるで竜巻《たlリよヽq》の中にいるかのように、間近で空を切り裂《さ》く風のうなりが聞こえた。耳元で続けざまに爆竹が弾《ばくちノ、はし》け飛ぶような音に、頭が甘《心》さぶられる。  長い! 長い滞空《たい・、・J》時間のあと、腹部の芯《し人》までズソと響《!?lげ》くような激しい着地の衝翳が《しょうすき》きた。 「……うあーもう……さすがにちょうと肝《し1−・も》が冷えたぜ……」  視界がぐらぐら揺れているのに気、づいたのほ、長い|溜息《ためいき》とともに燕青の額がゴツンと秀麗の頭を直撃《ら 「{く∫−ヽヽ�》してからのことだった。……一瞬気絶していたらしい。秀麗の視界に、近寄ってくる守っ一騎の姿が入ってきた。  背後からの一斉弓射のなかを《_》突っ切ってきたとはとても思えない平静な顔だった。文字通り間一髪《カんいつlほつ一》で問に飛び込んだ燕膏が根でかばわなかったら|間違《ま ちが》いなく死んでいたのに、初老のl紋《しわ》を刻みはじめたその顔に、一−片の一動揺《�一・∵トL二つ》もない。  そういえば、と秀麗は思い出した。着任式には茶家のーRを欺《′おヾ一L》くために種々の扮装《ふ∴÷‥..》をして墟壇入りした各太守だったが、丙太守は確か−『置物Lとして荷にまざれてきたんだった。 (礼《れい》部の魯尚書《ろしよ・lつしょ》に似てるねって、あとで影月くんと話したっけ……) 「こらーおじじ! もう歳《ししし》なんだから無理しちゃダメだろー!?」  棍で被弾《!?だん》を|完璧《かんぺき》に防いだ燕青は、とんでもない無茶を決行した太守に|怒《おこ》った。  丙太守は聞こえないふりで馬を降りると、秀麗に近寄った。  慌《あわ》てて馬を降りようとした秀麗は、落ちかけて燕青に助けられた。  ふらふらと立った姫州牧は、着任式と変わらず、丙太守の顎《あご》ほどしかない少女だった。  けれど−まっすぐに丙太守を見上げるその眼差《まキぎ》しは、着任式のときとは少し違《ちが》った。 「丙太守……今までお一人で頑張ってくださって、ありがとうございました」  秀麗は目上の者に対する、正式な立礼をとった。 「−助けにきました」  丙太守の顔が、歪《沌が》んだ。−こらえきれなかった。  胸の前で組まれた秀麗の手を、ぐっと握りしめ、|膝《ひざ》を落とした。 「……お待ち……申し上げておりました……」  秀麗も燕再も、何にも動じない丙太守の頬《はお》を伝い落ちる涙に驚いた。 「お見捨てくだきらなかったこ守…:心から感謝いたします」  小さな村のために、すべてを尽くして飛んできてくれた、二人の州牧。   モノのように簡単に切り捨てられることのない、幸せ。  丙太守は、今ようやく、茶州が見捨てられた地ではなくなったことを、心で知った。  ……やがて、どやどやと駆《 り》けてくる、何十人もの足音が聞こえた。 「……丙太守、そこをどいてください」  不揃《ふぞろ》いな足音は、やってきたのが武官たちだけではないことを示す。  丙太守は、最後に秀麗の拳《二ごL》を軽く握りしめ、振り返った。 「みんな、その女のせいなんだベア」   燕青が無言で梶を握り直した。秀麗は牡《はら》に力を込めたあと、−ーLぐっと顔を上げた。                                           t。草           子                                 、   �:        .�.                                                       ∴rり�              一√・   閉じようとしていた城門からぞろぞろと出てきた男たちは、皆《みな》一様にぎょっとするほど異様に目をギラつかせていた。武官が最前列に出ていたが、その後ろに続く街の男たちのほうが圧《あつ》倒《と∴ノ》的に多かった。武官は勿論《もちろん》、住人たちも大半が手に鍬《くわ》や鋤《寸き》を構えている。   秀麗はふと、妙な違和感《みょういわかん》を感じたが、何が引っかかったのかはわからなかった。  ギラギラと|輝《かがや》く何十もの隙オ《こくこく》しげな目は、ただ秀麗だけに注がれていた。 「……もういい加減にしてくれ」   誰かが、低く|呟《つぶや》いた。 「わしらになんの恨《う・り》みがあるんだ。なんもかんもめちゃくちゃにしやがって」 「お役人のするこたぁ、いっつもろくでもねぇと相場が決まってるが、こりゃねぇだろ」 「あんな気味悪い病バラまいといて、よくもノコノコきやがったもんだぜ」 「まったく何考えてんだ。嫁《よめ》行ってメシ作ってガキひりだすのが女の仕事だろ。男にゃどう頑張ってもガキは産めねぇんだからよ。だから男が|女房《にょうぼう》子供のために働くんだ。そんで釣《つ》り合いがとれるってもんだ。それをなんだ、余計な|真似《まね》すっからおかしなことになんだL 「なあ。前の舟牧様んときは一度もこんなことはなかったのが良い証拠《−」トメ∴ノ一一一》じゃねぇか」  燕苗のこ」めかみが波打った。……数 「年に一度の流行がたまたま外れたにすぎない。それにただ単に燕青と悠舜が気づかなかっただけで、実際は名もない村が全滅《.で∴畑∴.》していたかもしれないのだ。l発覚しなかったのは、平穏《へ.�卜い′‥》だったからではない。燕膏が無能だったからだ。一しかし−そんな 「説明帖は、彼らlには何の意味もないのだ。すべては彼らのl信じるものlの中だけで完結L、それ以外のl真実には耳をふさぐ。l、両様も両様だl。ずっと話のlわかるお人だと思ってたに、あんな病持ちぞろぞろ入れて。わしらが病気にな▼つて事っ死《十‥》んでも構わねぇってんですかい」  l 「いやいや、その娘《L∫巧》っこになんぞ入れ知恵《呈、》されたに違いねぇぞ。lなんせ病をばらまける女だのなんか妙な術でも使って丙様を操《一..、.》プll)てんのかもしんねぇL俄然《ノ・りー∴》、それに控同寸る声が次々と上がった。色を変えた両太守を、燕青は袖《J∴∴》を引いて押しとどめた。その否定さえ彼らは秀麗の二術帖のせいにするだろう。何を言っても水掛《・り∴一∴》け論《∴.∴》にしかならないのは日に見えていた。 「街に入れたらとんでもねぇことになるに決まってる。来年は日照りが起こるかもしんね」 「いや、これからすぐ大雪が降るかもしわん」 「その小娘を殺して、今からでも彩八仙《さいり∵つり」・八》さまに拝んでお怒りを静めてもらおう。そうすりゃ、病もなんも全部丸くおさまるってんだ。殺すしかねぇ一 「そうだそうだ‖ここで殺すんだ。石集村の奴《やl−ノ》らも引きずり出して火をかけろ!」 「殺せ!! 」  激しい怒号《レ)子てり》濾�起こる。‡秀麗ほじ.っと唇を引き結んで黙っていた。自分という存在が引き金になったのは確かで、赴任《.∵れ》のl時期を鑑《カ・九凸》みても彼らがそう信じるのは仕方がなかった。奇病《さ!?tう》というどうにもできない不安と|恐怖《きょうふ》に、やり場のない感情が噴出《ふ∴▼しル》するのも当然だった。命を預かる官吏《 り∴り》として、捌け〓となり、受け止める責任があると思っているからこそ、燕青も丙太守も何も言わなかった。   けれど、秀麗が心中そうなるかもしれないと|覚悟《かくご 》していたこととは少し違っていた。   確かに生け啓《−∵∴》という『鎮静剤《∴/・バ】∵.−�》』が必要になるかもしれないとは思った。生きて責陽に帰れないかもしれないと覚悟もしていた。けれどそれは、虎林郡の人々が秀麗を病の原因だと心の底から 「信じて』いるゆえの、収まらぬ糾弾《さ事・リド∵れ》や怒りのl結果としてだ。 「千夜しの土ともあり、秀麗は自分が本当にこの病のなにがしかの一因となったのかもしれないと半ば以上覚悟していた。もしそうなら、本気でこの命をもって償《J・し、�》うつもりできた。  が、こ《ヽ》れ《ヽ》は《ヽ》、違《ヽ》う《ヽ》−り 「……燕膏」   燕串は返事のかわりに、秀麗の心を計るようなどこか注意深い視線を向けてきた。   両太守は、もしや早まったことを言うのせはないかと嬢を深めて振り返った。   秀麗は深く息を吸った。 「私……ここじゃまだ死ねないわ」  二柏《はく》のち、燕青は張りつめた弦《げん》をゆるめるように笑った。 「だよな。きっと次は昨日の便秘まで姫さんのせいにされるんだぜ」 「……あ、あのねぇ……もっと別のたとえにしてほしかったわ……」  ふと、改めて目の前の人々を見た秀麗は、そのとき|唐突《とうとつ》に、最初に感じた違和感の正体に気づいた。−そうだ、よくよく見れば……。 (みんな男の人ぽっかりで、女の人が一人もいないんだわ……)  秀麗は首をひねったが、理由までほさすがにわからなかった。  秀麗の呟きを拾った男たちの頭に、またたくまに血が上った。 「死ねねぇだと!?」 「ー死ねません」  秀席は両足を踏みしめた。  今ここで、秀麗が望み通り死んだら、また、同《ヽ》じ《ヽ》こ《ヽ》と《ヽ》の《ヽ》繰《ヽ》り《ヽ》返《ヽ》し《ヽ》に《ヽ》な《ヽ》る《ヽ》。  彼らは、秀《ヽ》麗《ヽ》が《ヽ》病の原因などと信じてはいない。誰《ヽ》で《ヽ》も《ヽ》よ《ヽ》か《ヽ》っ《ヽ》た《ヽ》のだ。病どころか、起こってもいない日照りや大雪までしょいこませるのは、そういうことだ。                                                                                                                         lヽノ  適当な誰かに責任をおしつけて、『生け蟄』にして、祈《一−JY》って、ことが過ぎるのを待って。  �それでは、だめた。どうあっても、ここで死ぬわけにはいかない。 「できることと、しなければならないことがあります。誰も助けてないのにまだ死ねませんァ 「この女!!よくも言えたもんだ!」 「責任とる気もねぇのか! お前がここで死ねば何もかもよくなるんだよ!」   武官の一人が、燕青に向き直った。 「浪州翠、《しゅういん》仮にも州牧だというなら、民《たみ》のために当然命を差し出してしかるべきではありませんか。それで病の広がりが食い止められるなら絶対するべきですよ。この女が嫌だというのなら、あなたが補佐《はさ》としてその断をくだすべきではありませんか」  力ずくで強行|突破《とっぱ 》するのは可能だったが、燕青も秀麗もあえてその場に留《とご》まっていた。   いま、ここでしかできないことがあった。 「じゃぁさ、今度虎林城下であの奇病《きぴよう》が流行《はや》ったらどうすんだ? お前らが姫さんや石柴村にいったように、今度ほ虎林城下ごと隔離《・カノ\hリ》して全員焼き討ちしてもいいんだなエ  武官を含《.」.\》めた全員が、静まり返った。  秀麗に言い放った言葉が、そのまま彼ら自身に腺《■ 》ね返った。 「怪《あや》しきは罰《ばつ》しろって、そういうことだぜ? そのことわかって言ってるんだろうな? L 「そ、それは……」                                                                                       .ノ   それはまるで花がらを摘《′一》むように。誰かに『悪い部分』を押しっけて、他の花は素知らぬ顔で花を咲《き》かせる。ずっと音から、連綿とつづいてきたこと。歪《ゆが》んでしまった輪を、元通りにするために必要な最小の|犠牲《ぎ せい》。実際、それはひどく簡単で、そして、とても有効な手段なのだ。   その有用性は認める。けれど、|間違《ま ちが》えてはいけない。忘れてほならない。  影月が最初に、その▼身をもって示してくれたこと。本当の一最善の方法。 「いくら簡単だってさ、やられるほうにとっちゃたまったもんじゃないだろ。誰だって殺されたくも見捨てられたくもわーよ。病気になったら助かりたいって、思うのが普通《声.′..ノ》だろ」  次々民を切り捨てる上役人たちを見てきた彼らが、同じように真似するのは自明の理だった。  それがいちばんいいと思ってきたから、それ以外の方法など考えない。�——−知らないのだ。  彼らのlHに映らぬ別の道に、誰かが灯火《l′〜�」!?》を照らさなければ、いつまでも何も変わらない.。  いま、ここで、種を蒔《しレL》けたなら。  躯《か》けずり回って探してみたら、不治の病が、そうではなくなったように。  ほんの少しでも、きつと未来は違《−�ノ.・》lつてくる。  芽《ヽ》吹《.1》くときが見られなくても、それもまた、秀麗と燕舌の仕事のはずだった。  燕膏の言う通り、出吏として、いつかこのl命を誰かのl命と引き替《・J′》えにする日が来るかもしれない。すべての責任を背負って、差し違える覚悟でその選択《せ�れた‥》に臨《lいぞ》むときがくるかもしれない。                                              ーJ.」.1.:し  けれどそれは、当座の鬱憤《rl′》の捌け日にただ利用されるだけの、こんな形では決してない。 「だからさ、姉さんは見つけてきてくれたんだぜ。難しくても、頭使って体張って、駆けずり回って、治療法と、医者を見つけてきてくれたんだ。本当の『助かる』っていうのは、そういうこったろ?わけわかんねー噂信じて鍬《J》もって俺たち|襲《おそ》ったって、一人も助かんねーよ」  ギラギラしていた男たちの目が、少しずつおさまっていった。 「なぁ、言ってる意味、わかるか?今度この病がどこで起きても、もうどこも焼き討ちする必要はねぇ。大事な|女房《にょうぼう》子供も、生まれてくる孫も|曾孫《ひ まご》も助かる。姫さんと影月がり何Lを守ろうと思ってここまできたか、まだわかんねぇ?お前ら全部、この先まで、丸ごとだぜ? L構えていた|槍《やり》や鍬《ノ、JJ》や鋤《すき》が、徐々《どよじょ》に下に降りていく。  秀鹿の後ろから、柴凛と葉医師たちがようやく追いついてきた。  秀麗は深く息を吸った。 「どうか通してください。�邪仙教″へぼ必ず行きます。そこで私の首が何かの役に立つのなら、そのときは責任を果たします。けれど今は一刻の猶予《怜うよ》もないんです。時間があるうちに、打てる手は打たせてください。お願いします。私たちは助けにきたんです。−道を、開けてくだ_いー! L酸紋《1ち人》のように動線《ごうょう》が落ちた、そのときだった。 「だまされるんじゃねぇ!!」  |大柄《おおがら》な男が飛び出し、怒鳴《どな》り声を上げた。  丙太守は目を剥《む》いた。それは、数日前に郡武官から除名されたはずの朱温だった。 「よく考えてみろよ。もし�邪仙教″の言うことが本当だったらどうすんだ!!その女が仙人《せんに人》様の怒《しわ》りを買ってんなら、何やろうと結局は全部無駄《もだ》ってこっちゃねぇか!」血走った目と一見筋が適っているかに聞こえる怒号は、おさまりかけてはいたが完全には納《左つ》得《ヒく》していない男たちの狂騒の煩火《きょうそうおさげ》を容易にかきおこした。 「俺一人だってやってやる。その女一人殺してみんな助かるなら安いもんじゃねぇか。効かないのと同じくらい、効くかもしれねぇだろ。俺はやるぞ!」  まさにさっきと堂々巡《どうど∴ノめぐ》りだった。それでも、朱温の|叫《さけ》びほ男たちの心に根強く残る、もしかしたらという不安をつき、早く終わりにしたいという気持ちを煽《あお》るには|充分《じゅうぶん》だった。  下がりかけていた武器が金属音を立てて構えられる。再び、目は異様な光を放ちはじめた。  燕青の両眼に険しい光がひらめいた。腰《こし》をかがめ、棍《こ人》を構える。くそったれ、と|呟《つぶや》く声が秀麿の耳に届いた。  極限まで熱した陶器《し�りき》が、砕《ノ、だ》け散ろうとしていた。  丙太守が秀麗を守るように背にかばった。  秀麗は唇《! 、おりげろ》をかみしめた。燕青の張りつめた背を見れば泣きそうになった。彼がずっと守り、大切に慈《い.ノこ》しんできた茶州の人々を相手に棍を向けること−信じてもらえなかったこと、声が届かなかったこと。いつでも言葉がまっすぐに伝わるわけはないけれど、それでも。  悔《くや》しくて悲しい、その想《おも》いが、胸に痛い。 「�えん、燕青!」 「守らなくていいなんて、まさか言わないよな?」 「……言えないわ」  影月もまだ見つけていない。�邪仙教″のカタもついていない。  何も終わっていないのに、死んでも良いなんて、口が裂《七�》けても言えない。 「……でも、何があっても、私が引き受けるから……」  考えるより先に言葉がこぼれた。  自分でもどういう意味かわからなかったが、燕青は|驚《おどろ》いたように振り向いた。次いで|浮《う》かべたのは、今まで見たどの笑顔《えがお》とも違うものだった。矢が見当違いに飛んだと思ったら、あると思っていなかったところにあった的の、まさにど真ん中を射|貫《つらぬ》いたのを|目撃《もくげき》したような。 「うん、よろしく」  燕背がそう言った瞬間、《し紬人かん》朱温が先頭切って駆けだした。それを皮切りに、津波《つなみ》のように全員が怒号《? り�一う》とともに走り出した、そのとき。 「やめて   ー  つつつ!! 「   まろぶように男たちの間から転がり出た少女が、泣きながら叫んだ。                                     ∴T         ∵毎                            早輯l  黒  《、一−.》  夢かと、思った。 『私たちほ、助けにきたんですL  シュウランが、ずっと聞きたかった言葉を言ってくれた人が、そこにいた。  馬に乗った丙のおじいちゃんのあとを必死に追いかけていたら、うしろからやたら怖《一わ》い顔をしたおじちゃんたちがどんどん追い抜いていった。  石集村の子供と気、づ一かれたらまた色々なものを投げられるから、物陰《ちのかげ》に隠《カ・〜》れ隠れ、こっそりあとを追いかけた。だいぶ離《.パl》されて、城門をようやっと抜けたときには、さっきのおじちゃんたちがずらりと集まって、何かを叫んでいた。 『石集村の奴《.1−・》らも引きずり出して火をかけろ!! |凍《こお》りついた。  同じことをここにきたときも言われたけれど、何度聞いても、心がぐさりと水の一刃で《り∵.∵∴し.》刺されたように痛くて苦しくて息ができなくなる。殺したいほど憎《.・1》まれていることを思い知るのは、知ってはいても涙《左一ノ.バ一》も束りつくぐらい、つらくて悲しい……。 (……石葉村から、出《ヽ.・一l》なければよかったのかな……)  ずっと考えないようにしていたことが、頭をもたげたとき。 『できることと、しなければならないことがあります。誰も助けてないのにまだ死ねません』      f.♪〆一FL  呆然《——.◆.′》と、顔を上げた。……助けに、きてくれたうこ誰《だわ》も、本当は無理だと、心のなかであきらめていたのに。  光が、差す。  シュウランはふらりと歩き出した。  空耳かもしれないという不安を凌《しの》ぐほどに、そのl光は強く。  もう一度1もう一度、その言葉を近くで聞きたいと思った。 (さっきの……女の人の、声だった……)   女の、ひと。  最後に見た影月の、真実|優《やさ》しくて力強い、自信に満ちた|微笑《ほほえ》み示閃《!?∴l柄》く。 『ここにくる女の一人は、絶対に助けてくれる』  〜影月お兄ちゃんは、やっぱり嘘《.つ.て》をつかなかった。   きて、くれた。   目の前のことに意識を向けている男たちぼ、シュウランに気づかなかった。シュウランはこの黒山の向こうにいる人を何とかして見ようと思ったが、背丈《せたH》のないシュウラソではいくら伸《の》び上がってもうろうろしても、どうにもならなかったl。   ふと、しゃがみこんだ拍子《りょ・�し》に、たくさんの足の|隙間《すきま 》から潜《しぐ》り込めそうなことに気づいた。  隙間をするすると抜けるのぼ体の小さいシュウランの得意技《ヒくいlJぎ》だ。さっそく猫《れこ》のように体をねじこみ、カッカと怒ったり静かになったりせわしない男たちを尻目《しりめ》にそぉっと前に進んだ。  進むごとに、シュウランは少しずつ不安になった。なんだか、さっきの言葉は本当に空耳のような気がしてきた。聞き間違《・��l�‥・》いだったらどうしよう〜。  そう思うと、シュウランの動きはピタリと止まってしまった。霜《しら》に直接ついた膝と掌《りllで�て一りハ∵ら》が、寒さとは別の理由でガクガクと震《ふろ》えて、進めなくなった。  たくさんの人がバタバタ死ぬのを、毎日見た。誰も助からなかった。最後の望みを繋《lつlな》ぐ一方、その願いさえ砕かれたら、きっともう二度と立ち直れない。それほどにシュウランの心が喪《うしな》ったものは多すぎて、ポロポロに傷ついていた。必死でお目様を見上げている顔を一度うつむけたら最後、もう二度と上げることはできなくなる。  戻《もど》ったほうが、いいのかもしれないと、思った。                                                                                                               ーJ ー.  そうすれば、少なくとも、まだ希望は《′》潰《†ヽ》えなくてすむ。 (そうだ、そうしよう)  せめて確かめるならリオウと一緒《..:ノしート》のときにしようと、言い訳して、そろそろと後じさる。  その声が矢のように届いたのはまさにそのときだっだ。 「私たちは助けにきたんです」  鼓動《こ? てrl》が、鳴る。ゆっくりと、注意深く、言葉をかみしめるようにまばたく。 (今度こそ、ちゃんと、開いたもん)  間違いなく、その声は、二度目の。  もう、迷わなかった。  影月お兄ちゃんと同じように、その言葉を言ってくれる人を、ずっと待っていたのだ。 (お母さん……お母さん、お母さんお母さん!)  もう、死んだほうが幸せかもなんて、二度と思わない。  生きられるのなら、これからずっと一緒に。  霜をかいて、前に進もうとすると、聞き覚えのある嫌《いや》なダ、、、声が響《!?lげ》いた。 「俺一人だってやってやる。その女一人殺してみんな助かるなら安いもんじゃねぇか!」  ……シュウランは、自分が何を耳にしたのかわからなかった。  周囲の様子が急におかしくなった。がちゃがちゃと耳の近くで刃物《はもの》が鳴る。  どきどきと胸が嫌な音を立てる。無我夢中で、男たちの足の間をひたすらに進んだ。  考えたくない言葉の意味を、心のほうが理解していた。 (なに……なんで?)  助けに来たって、言ったのに。言ってくれたのに。   ひたすらに待って、待って、待って、ようやく、差した光を。   どうして、つぶそうとするの。  誰かを殺すなんて、どうしてそんなひどいことを簡単に言えるの。  誰かが死ぬのがどんなにつらくて悲しいか、シュウランだって知ってるのに。なんで長く生きてる大人がわからないの。普通《ふ 「う》に生きてても人はあんなに簡単に死んじゃうのに、生きるほ                                                                                                                                                                  −.ノうがずっとずっと難しいのに、どうしてその命を摘《√l》もうなんてひどいことを考えるの。    −どうして。   周りの足が、|一斉《いっせい》に動き出す。  寸前で、足の林を抜けた。男たちの前に転がりでる。凍りついた固い土と|槍《やり》のような霜が、シュウランの剥《む》き出しの手足をこすり、突《つ》き刺し、肌《はだ》を割《き》いて血をにじませる。  吐《一l》いた息が、乳を固めたように白くけむった。体の傷なんか何も感じなかった。  ポロポロと涙がこぼれた。  お母さんを悲しませないように、お父さんが死んだときだって必死でこらえたのに。  心が、痛くて、痛くて、バラバラになりそうだった。 「やめて〜つつつ!!」  差し伸べてくれた優しい手を、奪《.Jこlr》わないで。  《一》男たちがぎょっとしたように足を止めた。  さすがの燕青も虚《ヽ1L一》をつかれた。  飛び出してきた七つ八つはどの少女は、転んだ身を起こし、泣いていた。 「なんで……なんで? なんでそんなことするの。もう充分《し骨・Jご・わ》じゃない。何も悪いことしてないのに、お父さんもみんなも、死んじゃって、これ以上、どうしようっていうの。せっかく……せ…つかく、きて、くれたのに。お母さ……助けようと、してっ、くれ……ひと、なの、に」  丙太守はその少女が誰か、すぐに気づいた。  右葉村の子供だ、と誰かが囁《ヽ.ーごハ.》き、男たちが後じさる。  やめて、と涙の合間から小さく絞《しJー》りだす声がした。 「やめてよ。もう、誰かが死ぬの、見たくないよぉ……つつ!!」  祈《いの》りのような|叫《さけ》びに、秀麗は震えた。  どん、と胸を何かが突き抜《ぬ》けたような気がした。  十年前の、自分が、そこにいた。  |倒《たお》れていく人々。死んでいく人々。何もできずに、明日が来ることにさえ脅《おげ》えて。 (だれかたすけて)  どこかにいる 「誰かしに、毎晩祈った。もう、これ以上悲しい二胡《こ二》を弾《!?》きたくない。一生懸命握《!?・九めいにざ》った手から、力が失われていく|瞬間《しゅんかん》の、心が砕《くド‘》けるようなあの想《おも》いを。  ああ、声が、聞こえる。 (いや……死なないで……いやだよ……もういやぁ……!)  誰か救い出して。誰か、違《ちが》う明日がくるよと言って。  もう|大丈夫《だいじょうぶ》だよと、言ってくれる人を。  ただ、待って−そして。 「このクソガキ! わかんねぇのか。この女がお前の村めちゃくちゃにしたんだぜ。こいつ殺しゃあ全部良くなるんだよ!」  少女はキッと朱温を睨《に・り》み付けた。  彼女は1今まさに、病で苦しむ人のただ中にあった彼女ほ、迷わなかった。 「−ちがうもんっっ!!」   叫んだ。 「そんなの嘘だもん。影月お兄ちゃんが言ったもん。あたしたちの村にきてくれる女の人は、絶対助けてくれるって!!あたし、影月お兄ちゃん信じてるもん!!」                              つぷや   影月、とポッリと燕背が《l》呟いた。                                              .ノ   秀麗は胸が《√》詰まって、声が出なかった。    −信じてくれている、こと。 『頑張《バ∵八イ‥》りましょうね、秀麗さん』   声が、聞こえる。いつもそう言って秀麗を励《ょず》ましてくれた、優しい芦と微笑み。   そばにいなくても、彼は−彼の残した心が、秀腰を助ける。 「影月お兄ちゃんは、すごいんだから! 色々なこと知ってて、頑張ってくれたんだから! そ、それに、いなくなるすぐ前に、言ってたもん。なんか、お薬作る合間にあちこち色々調べてて、ずっと前に死んだ氷づけのネズ、、、溶《と》かして、お腹《なか》破いたら、へんな袋が《ふ! 、ろ》あって、中から虫が出たから、これが原因で、それで、もしかしたら、これをとれば治るかもしれないとかって、よくわかんないけど、いってたもん。みんな、知んない間にお水と一緒にその虫の卵飲ん                                                                                                                                       .——−1じゃったから、病気になったんだろうって。誰《ナノjJ’》かのせいなんかじゃ絶対ないって」  葉医師も、他《ほか》の医者たちも息を呑《lむ》んだ。 「よ、葉老師。その少年、まだ十三、四歳なんですよね……!?」  葉医師は息を吸い込み、瞑目《めいも/、》した。 (華郷の二心を《.》継ぐ、弟子《イ.・\》……か)  決してあきらめない。最後の最後まで、助ける手立てを考える。  時を超えて受け継がれる、心と意思。  −1——何も知らないくせに……影月お兄ちゃんがどんなに頑張ってくれたか、何も知らないくせに、勝手なこと言わないで! あたしは、勝手なことぽっかり言うだけ言って、山に引きこもってなんにもしないへンな集団も、簡単に誰かを殺すなんて言えるあんたたちも信じない。あたしは、助けに来てくれた影月お兄ちゃんの言葉を信じるもん!!本当に来てくれた、このお姉ちゃんを信じるもん!!」  シュウラソは秀麗を振り仰いだ。くしゃくしゃに顔を歪《わト・》め、大きな瞳《へlし一・�》から涙《∵芸J》があふれる。 「お姉ちゃ……お願い……あたしの、お母さんをたすけて……」  秀麗は|膝《ひざ》をつき、シュウランのl小さな頭を抱き寄せたり十年前に、誰も言ってくれなかった言葉を、いま、彼女に——1そして。  誰も言ってくれないなら、自分が言おうと思った、昔の自分に向けて。 「もう、大丈夫よ」  シュウラソほいっぱいにためた大粒《おJJ∵�い》の涙をこぼし、秀麗にしがみついて泣いた。  言って欲しいのはたったひとこと。  |奇跡《き せき》がほしいんじゃない。みんながみんな、|嘘《うそ》みたいに治るなんて、思ってない。   見捨てられていない。どうでもいいと思われていない。   そのことがわかる、たったひとこと。 『大丈夫nlー. 「あら…がと……つ」  きてくれて、ありがとう。たくさんお薬送ってくれて、お医者さん連れてきてくれて。   見捨てないでくれて、ありがとう。 「ょうっせぇ!!」  朱温が欄々《・り人・り・ん》と目をぎらつかせ、剣《H∵ん》を振りかざした。 「生意気な口利《、−》きやがってこのクソガキビも! ぶっ殺してやる!! 」  燕青が踏《・h》み込んだ。一瞬《し−つしゅん》で間合いを詰め、梶《こん》で剣をはねとばす。次の瞬間には、朱温ほ地面に打ち倒され、燕青の足がその背を踏みつけて囲い地面にはりつける。  陵毛《まつげ》をゆっくりと上げ、男たちを呪み付ける。 「口どけよ」  低い声とともに、梶が地面を打つ音が、高く重く響き渡《わた》る。  燕青の裂畠の気曝《れつはくきょく》が、男たちを打ち払《はら》う。 「そこをどげっつってんだろぉがっ!!」  雷《かみなり》に打たれたかのように、男たちがびくりと身を引いた。   そのとき、城門から馬が走り出てきた。  馬上にいる青年官吏《かんり》の姿に、待っていた丙太守はぐっと拳を握《二ぶしにぎ》りしめた。 「丙太守!!準備、すべて完了《か人りょう》しました。お医師殿、すぐに|治療《ちりょう》にかかれます!!ご指示通り、女性たちを明け方から拝《おが》み倒して協力の|承諾《しょうだく》を頂きました。侍に針仕事の得意な女性たち数十人、文《ふT�》通りの縫合法《はうごうー▼J》を|完璧《かんぺき》に覚え、煮沸《しや・舟rJ》した銀針に絹糸を通して待機しております!!」秀麗はほじかれたように葉医師を振り返った。       せ人せい 「葉医師……」  1苦から、看病に関しちゃおなごの右に出るもんはおらんじゃろー」  艶々《!?ようけlよう》と葉医師がうそぶく。  秀麗以上にまったく寝耳《わ1�・�》に水で|驚《おどろ》いたのは男たちの方だった。 「なっ、なんだってぇ!?」  そのー際《jヽL一》をつくように、城門から怒号《レ一バて 「》が飛んできた。 「こんの宿六《ヤド〓ッ》!?バカなことやってないでさっさとそこをおどきっっ!!」  反射的に男たちほ飛び上がった。  振り返ると、恰幅《ムり′1.」く》のいい女たちが十人ほど、ズラリと並んで男たちを睨みつけていた。 「げぇっ」 「か、母ちゃん!」  真ん中で仁王立《にお∴ノだ》ちしていた四十がらみのおばちゃんが、ぎろりと|亭主《ていしゅ》を一瞥《いらベlつl》した。 「あんたは、あたしや子供が同じ日に遭《あ》ったときも、そうやってぶち殺すつもりかい」 「そ、そんなこと……お、俺たちはお前らのために……それに、別に医者は殺すつもりは」 「ふざけたことお言いでないよ。あんた、その女の子殺したあと、どんなツラであたしや子供の前に出完っもりなんだい。あたしは人殺しの亭主なんかごめんだよ⊥亭主を怒鳴《とな》り飛ばしたあと、女は|溜息《ためいき》をついた。 「……そりゃあね、最初は嫌《いや》だったさ。でも、ほんの小さな娘が《むナめ》、病気になった母親のために右葉村から頑張って歩いてきたって聞いてねぇ……」シュウランがふと顔を上げた。 「あたしだったら、つて、思ったのさ。子供が泣いてるのは嫌なモソだよ。どの子供だって、母親が死ぬ思いして産んだんだからね。悪さすりゃ、そりゃぶつけど、あたしのことで泣くの一を見るのはごめんだよ。それ以上に、泣くのを|我慢《が まん》してるのを見るのはもっとつらいもんだ。歯くいしばってちょろちょろ動いてる子供ら見てたらねぇ……助かるもんなら助かってほしいって思ったんだよ。あたしの子供が同じ目に遭ったら、何を置いてもそうするさ。もちろん、あんたら宿六だってね。縁《j∵入》あって一組《い〕しょ》になった、あたしのたった一人の大事な学士だ。助けてくれるってんなら章《JJ・り》にもすがるさ。どんな噂が《うわさ》あろうが、絶対追い返しゃしないよし女の夫が、驚いたように顔を上げ、そして恥《ょ》じ入るように憤然《しようぜん》とうなだれた。   シュウランは、あのたくさんの 「落とし物トは、もしかしてこの女の人たちがそっと置いていってくれたものなのかもしれないと、思った。自分で食べたとき、大きくて形のいいおにぎりは、お母さんの|優《やさ》しくてあったかい味がして、シュウランは泣いたものだった。 「あんたらがバカな話し合いで留守してる間に、お役人が、一軒《いつけん》一軒まわってきたよ。病気が絶対伝染《、フつ》らないことも、お医者がくることも、助かるかもしれないってことも。そんで、助けてほしいって、あたしらに頭下げたんだよ。|偉《えら》いお役人様がさ。嬉《うれ》しいじゃないさ。わかんないかい。あたしらが困ったときも、きっとそうやって駆《か》け回ってくれるってこったよ。年貢《ね・へ�、》の納めがいがあるってもんじゃないか」女は丙太守に日を留めると、ほんの少しだけ目元を和《なご》ませた。 「そこまでされて手え貸さないなんて女がすたるってもんだよ。大体なんだい、女がお役人になって何が悪いんだいこの表六玉《!?ぶうろ、L−》やるハメになってんだよ。大体、その噂ってのも聞いてりゃ頭にくるじゃないか。女で何が悪いんだい。あたしは女に生まれたことを誇《ほこ》りに思うよ。命かけて命産んで、守って育てて、最高の仕事じゃないさ」  ぎろりと、男たちがまだ手にしている武器を見て、大喝《だいかつ》する。 「ふん、それをあんたら男はなんも感じやしないで、すぐ切ったほったでゴロゴロ死にに行くんだから、まったく報《ト∵\》われないよ! 生きてるの示当然て顔してさ。あんたら一匹《!?1.−》産むのに、こっちがどんだけ死ぬ思いしてると思ってんだい。実際死なないほうが奇跡なんだ。一回子供                                                                        ごt,l産んでみりやいいんだよ。そうすりゃ誰《/ 4》か殺そうとか死んでも思わないさ! さあとっととそ  の手にもってるのを捨てちまいな! そりゃ命繋《つな》ぐもんで人ぶち殺すもんじゃないんだよ!! 」  びくっと首をすくめた男たちの手から、やがてバラバラと鍬《くわ》や鋤《寸き》、剣が落ちていく。  燕青は目を丸くすると 「おばちゃん超《ちよ∴ノ》カッコいい〜」としみじみ|呟《つぶや》いた。 「さあそこをおどき! そんでたまにはタメになることおしよ。やるこた山ほどあるんだ。力仕事だって腐《く七し》るほどね。尻蹴飛ばされないうちにきりきり働きな。そうだろお嬢ちゃん」  胸が詰まって、声が出なかった。だから秀麗は言葉のかわりに、深々と頭を下げた。       ゼんせい 「葉医師……」 「おうさ。んじゃ行こうかい」  シュウランは秀麗と一緒ではなく、おばちゃんたちが乗ってきた荷馬車に乗せてもらった。  すると、ひらりとどこからか一人の少年が飛び乗ってきた。 「|馬鹿《ばか》だなお前、無茶しやがって。足から先に生まれてきたんじゃないのか」 「リオウ。あんたもいたの」 「お前より先にな。……どんなかと思ったら、十人並みだな」  ちらりと、医師団と一緒に前方を走っていく秀麗を見る。 「何よ。いたなら助けてくれたっていいじゃない」             ノ 「《′》突っ走りまくってて、どこにそのー隙があったっていうんだ?」 「こらこら、喧嘩《り人か》すんじゃないよ。仲良くおし」  おばちゃんたちにたしなめられる.。シュウランは思い切って言ってみた。 「……あの、おにぎりとか、色々なものくれて、あうがとうございました」  女たちほそろって日を丸くすると、互《たが》いに目を見交《み⊥り》わし照れたように苦笑いした。 「ばれてたのかい。あんなの、たいしたことないよ。嫌な思いさせちまって、悪かったね」                                                                                                                                     .ト  大きくてあったかい手で、くしゃくしゃと頭を撫《′》でられる。                ノl一  し′ー 「さ、頑張《∴.・/.》ろうねLlシュウランがこくんと諏いた拍子《へl・よ・J1−》に、最後のl涙が《∵霊」》ころがり落ちた。  優しくされて泣いたのは、いつ以来だろうと、シュウランは思った。 「お前はほんっとに泣き虫だな」  リオウが某《hヽ一》お返りながら、手巾《て有�、し.》を放《!!り》り投げてきた。                                                          .  −1′.い、..バrtY、l J.rrl hレ4−..——...H.1——......Tlllトll llJlい.ーhll l l ー.H.Ml l HllHl lr.ト.−H−1.トl     ヽl1.,            一−く.1r rトl ll・、lーさバhllバートプトrシーL・rlr L hノ、J・                              �′,1−1——1一lH.1−/1.−ト:lンl:l l・lll1−ヨmこ                                                   �1,ノ′・.し  医者たちは眼前の光景に呆然《l1.Jl。′? 》とした。  強い、死の臭《にお》いがたちこめる。  上腹部がふくらみ、肌《はだ》は黄色みを帯び、ぼんやりせ上を見上げるその白日まで黄色く濁《にご》っている。指は鈎《かぎ》のように曲がり、くるぶしにはひどい浮腫《もくブ.》ができている。−勿論《もらろん》、事前にそれらの|症状《しょうじょう》は頭に叩《たた》き込んでいた。  けれど、今まさに死にゆこうとしている数十人もの病人の裸体《−1たい》は、彼らの想像を超《こ》えて遥《はる》かに悲惨《!?さ人》なものだった。特に若い医官たちは、いきなり突きつけられた現実に|目眩《め まい》がした。  葉医師は厳しい顔のまますぐに患者《か人じや》の一人に近寄り、注意深く手でざっと触診《しよくし人》した。 「……やはり、肝《きも》か……癖《二ご》に波動を感じるな。ここが虫の巣か。まったく、虫の居所が悪いってのは今日っぽかしは酒落《しやれ》にもならん。よし、湯、濃度《▼りうご》の高い酒−茅炎白酒《らえ′れは・、し沌》を運ばせたはずだーあと清潔な布と服! 上等な綿! 用意はできてるか!?」 「できてます!」 「よし! 切開中も死ぬほど使う。足りねぇとかふざけたことにならんように、じゃんじゃん運ばせろ! 汚《よご》れた布と服はすぐに運んでおばちゃんたちに洗濯《せんたく》してもらえ!!」  先に待機していた薬師《く寸し》や鍼師《はりし》の即答《そくとう》に、葉医師は頷いた。 「体洗って新しい服に|着替《きが》えて、爪《つめ》切って二《に》の腕《うで》まで酒で洗いこんでから開始だ! いいか、手え洗ったあと、絶対顔や頭にさわんなよ。器貝は湯にぶち込んで煮沸しとけ!」  |叫《さけ》びながら、葉医師はすぐさま患者から離《はな》れ、とっとと着ていた服を脱《ぬ》ぎ始める。 「そこに突っ立ったままのでくの坊《ぼう》どもは|邪魔《じゃま 》だから叩き出せ! 何しにきやがった!!」  打たれた虻うに、医者たちが身をすくめた。ややあって、今の今まで真っ青だった一人の若手医官が、|覚悟《かくご 》を決めたように顔を上げ、葉医師がいる場所へ走り出した。それを皮切りに、全員が硬《かた》い顔をしつつも駆けだし、着替えを始める。  葉医師は手早く準備をしながらも、次々と確認《より一、にん》をとる。 「薬師! 文《ふ・h.》通りの調合法で、明け方前には薬を飲ませてあるな!?」 「はい! お目にかかれて光栄です薬老師! 術中の出血は最小限に抑《おさ》えられるはずです! 今も薬師全員で指示通りの各種薬剤《・�・、ざい》を調合しています。葉老師、一つ訊《1−》いていいですか!?」 「手短にしろ!」 「はい! 聞きかじりですが、かの神医・華郷老師は人体切開のおり、麻沸散《まふつさ人》という薬で患者を|眠《ねむ》らせたそうですが、それは今回使用しないんですか!?」 「いい質問だ。一度しか言わねぇからよく問いとけ! 麻沸散てのは、患者を完全に眠らせちまう。深く眠ってる人間の呼吸、今度聞いてみろ。起きてるときより格段に少ねぇ。つまり、寝《ね》てる問ってのは人体の全機能がいちじるしく低下する。そんなんで腹割《き》いたら、死ぬ確率があがるんだ。それやんなきゃなんねぇ時もあるけどな、今回は必要ねぇ。だからこそ、代わりに腕のいい鍼師をかき集めさせた。鍼師!」 「ほい!」 「言ったとおりの場所に全部打ったな? 出血も痛みも最小限に抑えられるな!?特に|延髄《えんずい》の下にゃあきっちり打ったな!?完全に眠らせてねぇだろうな!?」 「はい! 患者自身の意思では首からトは動かせませんが、ちゃんと最低限の意識は残っております! 目の動きで確認もとりました!」 「よし! 覚えとけ、それが鍼麻酔《ますtl》ってんだ!!あと印堂《い人どう》にも刺鍼《ししん》しろ。強い鎮静《ち人逗い》作用がある。誰だって、いくら死ぬ確率が下がるからって、夢うつつの半覚醒《かくせい》状態だろうが自分の腹が切られるのは怖《こえ》えもんだ。そこ打っておけば、精神安定させて|恐怖《きょうふ》心《しん》を取り除いてやれる」 「ほい!」待機していた各鍼師が次々と鍼を手にして飛ぶように患者へと散らばる。 「灯《あか》りを用意しろ。ただし、火の粉や灰が飛ばないよう、火影《ほかげ》も揺《時》れねぇようにきっちり覆《おお》いかけたやつだ。縫合《ほうごう》のおばちゃんたちを待機させろ。体洗って髪《かみ》きっちりくくらせて、髪一本落ときねーようにひっつめろって言うのを忘れんなよ」次々と指示を飛ばす。そこに、いつもの諷々《けようけlよう》とした葉医師の姿はどこにもなかった。 「|小僧《こ ぞう》ども! 準備できたろうな!?L薬医師は固い表情をした医者たちを振り返った。 「いいか。俺が最初にやるのをまず見てろ。一発で手順と措置《ギ、.ら》を叩き込め。責陽で散々手順はやりこませたはずだ。あとは、俺がやるのを見て頭ん中と現実すりあわせろ。−いいか、相                                                                                             ノ.▼・.手は目え開けてんだ。今までとは違《r.乃》う。相手は生きてるってことを、絶対忘れんなよ」目元をぎゅっと布で覆い、まるで魚屋の魚のように患者が並べられた台の片端《..∴一∴・..》に立つ。近くに用意された強い酒の臭いが晶腔《下二・り》をつく。医官の二人は、患者がぼんやりと日を開けているのlを見て、心腑《し′へ.J》が冷えていくのを感じた。−そう、彼らは、生きている、のだ。  生きてる人間のl腹を、今から自分たちは割くのだ。  ふと、葉医師がまさに患者のその日をのぞきこな、目元を優《・‥トさ》しく和《十∴�》ませた。  1……よく今まで頑張ったな。偉《・l・ら∴》かったぞ。もう大丈夫《/しし⊥l・∴い》だ、次には元気になってるからなll患者が、ゆっくりと日を|瞬《またた》いた。拍子に、ぽろりとその腑《∵レ一/l》から涙が一筋、こぼれおちた。  反射的な作用だったかもしれない。けれど、医者たちは、その光景を、生涯《し——.リノり1.》忘れなかった。  煮沸の終わった特殊《レT11し事》小刀をはじめとする器貝が次々と並べられる。 「ぶ切開を開始する」                                                                                 ヽ.ぐ.  葉医師の声が、その場に響《′し?」》いた。  鍼と薬が非常によく効いているようで、|驚《おどろ》くほど出血量は少なかった。  それでも、死体と違《らが》って、剥《む》き出しになった血と肉は鮮《あぎ》やかな朱色《し沌し.ろ》に色づき、生きていることを主張するようにどくどくと脈打つ。  ただそれを見ただけで、医官たちの敵にはじっとりと|汗《あせ》がにじみはじめた。  正確に、かつ|素早《す ばや》く切り開いた上腹部から肝が見えたとき、誰《だれ》もが息を呑んだ。 「……これか……」  ぼこぼこと、いくつもの袋《∴‥1へ》がくっついてできたような蜂《∴L》の巣のような包み。まるで食《・、》らいつくすように、そ《ヽ》れ《ヽ》は肝に巣くっていた。これのせいで上腹部に癌ができてしまったのだ。 「肝に浸潤《し・lへじル人》してるな……肝ごと切りとるしかねぇ。だが、まだ肝で良かった。覚えとけ、肝っての正良くできててな。多少切りとってもここだけはあとで大きくなってくれるんだ」医宮たちは何も言わず、ただ全身の神経すべてを日と耳に集中させていた。 「いいか、華眞の書に書いてあったのを覚えてるな。この虫の袋は絶対破るな。中の液が少しでも漏《一ツ》れたら、その|瞬間《しゅんかん》あっというまにあの世行きだ。それと、ここだ。何度も言ったし、見せたな。この太い管《・、バ」》は絶対に切るな。ここが腸から肝に血を送って動かしてる。それと、この部分−この管が心臓から直接血を送ってる脈、ここもさわるな。そして胆管《たんか・ん》−」死体で散々指導したところを、この場でもう一度《・》繰《、》り返す。  生きているのと、死体では、同じように見えて、まったく違う。  何よりも、絶対に、失敗は許されない。 「……もしこの袋が破れてたら、すぐに俺を呼べ。虫が血管通って別の場所にも巣をつくってる可能性が高い。どこに移動しているにしろ、肝に重点を置いてやってきたお前らには荷が重い。俺が何とかする。さあよく見とけ。切除及び病巣摘出《およげようそうてきしゅつ》に移る−」  脇に置かれた皿に、摘出した袋が置かれている。  女たちが呼ばれ、初めて目にする剥き出しになった体内に青ざめる。それでも、彼女たちは口々庖厨《だいど二ろ》で生きた動物をさばいていることもあり、思わず気を失って|倒《たお》れたり、逃《に》げだした女性はほんの数人に留《とご》まった。  腹が閉じられ、縫合�1!?完葉医師の無骨な指は考えられないほどなめらかに動き、針がまたたくまに肉の内側を縫《ぬ》う。  最後の結び目が結ばれ、ぷつんと糸が断ち切られる。 「薬師《くすし》! 増血薬と体力つけさせる薬、それと|眠《ねむ》り轟と毛布を用意しろ! 安逸《あんいつ》の効がある香《二・リ》                                      .−があったら焚《′一》いとけ。安心して眠らせろ。鍼師は終わった患者にはあまり手を出すな。切開でどれだけ体力が落ちてるかしれん。少しの|刺激《し げき》でも体に負担をかけるのは避《さ》けろ。さあ!」  葉医師は最初から最後まで無言を通した医者たちを見た。 「これで、全部だ」  誰かが、微《かす》かに身じろぎした。次に言われる言葉を誰もが覚悟した。  しかし、葉一矢輔は利なことを言った。 「昨日太守に早文《はやぷみ》を出して、この病で死んだ者の体−それもなるべく新しいものを用意してくれるように頼《たの》んだ。そこに行って病巣摘出の練習してこい」医者たちが目を剥き、弾《はじ》かれるように葉医師を見た。  葉医師はいつも陽気さを感じる顔から、すべての表情を消していた。淡々《たんたん》と湯で手を洗う。 「……いきなり生きてる患者《かんじゃ》と向き合えなんざ、言うわけねぇだろ」  誰かが、小さくポッと|溜息《ためいき》を漏らす音が聞こえた。  葉医師は微かに睫毛《ょ−ノイ‥》を揺らしたが、何も言わなかった。   −口で言って、わかることではないのだ。 「その、何体くらい、練習を……」 「自分で決めろ」  薬医師はクッと顔を上げた。その眼差《圭なぎ》しもまた、心を射|貫《つらぬ》くように鋭《すろご》く。  ア1−できると思ったら、くりゃあいい。思えなかったらくるな。あとはてめぇらの問題だ」                               漣         ぎ           ょ  秀麗と燕青は柴凛と協力して物品の手配に駆《か》け回っていた。 「�お湯を絶やさないように気をつけて! 絹糸はまだ余裕《よゆ∴ノ》があるけれど、綿の減りが思ったより早いわ。金華《き人か》に連絡《れ人らく》してすぐにとりよせを。汚《よご》れた布も、日が落ちるまでにできるだけ洗濯《せんた・1》できるように回転を早く。余裕があるところから人手を回してください。あとそろそろ配《−⊥一》膳の支度《ぜんしたく》をお願いします。各所から女手を割《さ》いて、おにぎりを紛《=ざ》ってもらえるように要請《ようせい》を。  食糧、《しょくりよう》お茶、その他、重いものは男手を借りて! 夜でも手元を照らせるように、覆い付きの|燭台《しょくだい》も五倍に増やします。うう、覆いかけで糊《のり》が必要になるとは思わなかったわ。糊作りを急いで! それと、みんな交替《こうたい》で必ず休息をとれるように徹底《て 「てい》して! 倒れたら元も子もないわ。きちんと回転組んで、よく眠《ねむ》ってご飯食べて、絶対過度の無理はしないこと!!」 「酒、薬、包帯その他消耗品《Lとうらう!?人》の残量は常時確認《ノりくに人》して俺に報告しろ! 柴彰と州府に連絡とって、ガンガン虎林城に物資運ぶように適達しろ! |到着《とうちゃく》した荷駄《lJr》は全部中身確認して、種類別に区分けしとけ! 横着すんなよ。必要なとき、どこにあるかわか巧ませんじゃ洒落《し阜れ》になんねぇぞ。あと薪《まさ》の量を調べろ! 日が暮れたら凍《二ご》えねぇように死ぬほど|松明《たいまつ》たくことになるぞ。足りねぇようなら、明るいうちに人手割いて薪《トーしヽ−でー》とりに行かせろ! いざとなったら、城の木製のモン片《かた》っ端《よし》からぶち壊《二わ》して薪にする! 武器もだ。|槍《やり》も斧《おの》も柄が木でできてんなら薪にする。武器庫開ける用意しとけ!!」  柴凛は頭の中に叩《たた》き込んであった切開用の特殊小刀設計図を料紙に描《ノり》き記しながら、虎林の工貝官に次々と指示を飛ばした。 「刀匠、鍛冶屋《とうしようカじや》の待機はすんでるな? 生体だと器貝が使えなくなるのがずっと早い。酒、熱湯、そして、生きた血に常時さらされているからなのだろうね。−量産態勢にうつる。鉄、銀、鋼、その他あるだけの鉱石残量の報告書を回してくれ。く、もう少し改良できんものか…  …耐熱《たし.わlリ》、耐食ではやはり鋼が《hガネ》一番だが、問題は、より鉄を錆《さ》びにくくできる石と配合……」  柴凛は大至急届けられた鉱石残量の巻物にざっと目を通し、ある一点で止まった。 「−1葉山《えいぎ八》ではクズ石とされてる銀白色の鉱物……?……んっ・銀白色……まさか」  柴凛の目がゆっくりと見開いた。机案《つ′\え》を打って立ち上がる。 「誰でもいい。すぐにこのクズ石の欠片《か!?ら》を私の許《もと》に届けてくれ! そうか、あの山の向こうは異州だ。もしかしたら……もしかするかもしれない。黒川・白州の剣刀匠《‖人レ〓りしよ∴J》にとっては百万金のー価値があるという、最高の鋼がつくれる、幻の弊《左ぼろしくろむ》鉱石……!」そして、そ《ヽ》の《ヽ》報《ヽ》が秀廊・燕青・丙太守に届いたのは、ほぼ同時だった。 「茶家当主代理の春姫様より各分家に指示が出た模様です。各家の蔵を全面開放してくださり、膨大《rうだ1.》な量の資金と物資が届き始めております! また、他の村や街で発症《はつLょ・1リ》した病人たちも、|噂《うわさ》を頼《たょ》りに午後から続々と到着してくる模様です! 通達よりも数日早く、受け入れ態勢が間に合いませ−」 「間に合わせる=」それぞれ別の場所にいた三人は、間髪容《かんはつい》れずに同じ言葉を|叫《さけ》んだ。                                                                                                                                                 lー.リー                                                                                                                                                                            r、                              .�1      寸《リ、》丁ン‥  《▼》《、》  医官たちは、城郭《じょうカく》の外にいた。葉医師が言っていた遺体は、そこに並べられていたからだ。                                           .い  ◆ .1  冬ということもあり、腐《ず》敗《�...1し》の度合いは極度に少なかった。中には、ほんの昨日おとといに命の灯《ひ》が消えたばかりのような体も少なくなかった。  鼻を《�》衝く、強い屍臭《しLゆう》。初めてこれを見ていたら、嘔吐《おうと》していたに違いなかった。けれど、彼らにとっては、さっきのまだ生きている患者のほうがよほど|強烈《きょうれつ》だった。外見的にはむろん、極限まで病状が悪化している遺体の方がよほどひどかったけれど、……目に光があるだけで、何もかも違った。生きている、というのは、それだけですべてを凌駕《り・ゃつ・バ�》する力があった。  午《!?ろ》を過ぎても、誰一人《ド」れ!?lとり》として葉医師のところには戻《もご》らなかった。  黙々《もノ、一b′1》と、青ざめた顔で、ただ命の消えた体だけを相手にしていた。 「……無理だ……」  不意に、若い医宮が血と肉片がついた小刀を取り落とし、そう|呟《つぶや》いた。|呆然《ぼうぜん》と開けた日から、透明《し∵.′勅.�》な筋がいくつも流れ落ちる。 「無理だ……僕には無理だ……殺してしまうよ」  その言葉を受けて、他の医官も顔を両手で覆《おお》った。 「俺も……俺程度じゃ、助けらんないよ……」  まず体力勝負を考えて、葉医師が見繕《みつくろ》った多くが二十代の若い世代だった。  まだ年配の医者よりも死に向かい合う経験も少なく、失敗もさらに少ない。  ただ華郷老師と幻の切開術に憧《あこが》れ、埋想に燃えるだけでここまできた彼らは、今、命という現実を初めて真っ正面から突きつけられていた。  薬物療法《りよ.うほう》も、鍼灸《しÅさゆ∴ノ》治療もー突き《lつ》詰めて言えば、処方した直後、目の前で患者に死なれることは|滅多《めった 》にない。こんなふうに、生きている患者を目の前に、そのたった一つの命を、この手で左右することはなかった。  葉医師のように、助けられる自信があるならいい。けれど、今の−今の自分たちに何ができる。人体切開のやりかたを学んでから、ほんの半月ほどしかたっていないのに。  まざまざと見せつけられた生きている人間の体内。|鼓動《こ どう》を打つ、多くの血脈。そのなかのたった一つを誤って断ち切っただけで、人は簡単に死んでしまう。決して、失敗は許されない。  指先が|僅《わず》かに震《ふ▼有》えただけで、|奇跡《き せき》のようなあの歯車を、自分が、止めてしまうのだ。  殺してしまう。医者なのに! この手で、病の患者を、自分が、殺してしまう。  だって、今、こうして向か.い合っている遺体でさえ、腕《うで》が震えて、何もできやしない。  助けられることなんか、できるわけがない。 「……なあ、あの高名な葉医師なら……数十人くらい、一人でできるんじゃ……」 「……俺らより、ありえないくらい体力あるしさ……」 「どだい、無理だよ……半月程度じゃ……」  弱々しい逃《に》げの呟きが、ぽつりぽつりとその場に落ち! けれどそんな自分たちを恥《+ 》じるように、すぐに沈黙《ちんもく》が後を追いかける。  今やその場の誰《だれ》もが、自分の無力さにうちひしがれ、ぼたぼたと涙《なみだ》を流していた。  �医者なのだ。病で苦しんでいる人たちを、ああして目の前にしながら、何もできないこ  とこそが、何よりも情けなくて、悔《ノ、や》しくて。  自分のことだけに|精一杯《せいいっぱい》だった彼らは、その場に誰かがきたことにまるで気づかなかった。 「あの、もし……そのお姿は、お医者様ではございませんか……?」  微かに震える、若い女性の声に、何気なく医官の一人が振り向いた。  そして、ぎょっとした。  三上をいくつかこえたほどの彼女は、肌《まげt》の黄色い子供を背負っていた。 「九桑村《′\そうむ・り》から参りました……お医者が……治してくれるお医者がいらっしゃったと開いて」  女性は、上腹部に大きな癖《‥ふ》がある子供を抱《∵》きしめ、泣き崩《・、.−》れて医官にすがった。 「お願いします……このl子を……どうか……どうか……助けてください……」  見れば、丘《ト�一バ》の向こうから、荷馬車や人のV影《Jゾイ》が、ぽつぽつとつづいていた。  了」の千が助かるなら、何と引き換《−▼り》えにしても、構いませんから……!」  裾《1ご、》をつかまれた医官の顔が、くしゃくしゃに歪《J十》んだ。貴陽にいる陶老師を思った。  虎林郡に向かう弟子《てし》の一人一人の手を撮り、送り出してくれた敬愛なる師匠《ししょう》。  くることができないことを、誰よりも悔《LJ、》やんだ、かの老師に託《た.、》されたもの。                                                                                                                            .ノ 『医師として……どれほどの宝を受け《√》継げるのか……!』   −その通りです、陶老師。  それは、切開という技術ではなくて。  絶望にうちひしがれていた母親に、子供を背負い、女の細足で遥々《りりろげろ》旅をさせるはどの。  助かるかもしれないという、希望。繋《つな》げるかもしれない未来。  それがなくては、人は、生きていけない。 (誰かを殺すかもしれないから、誰も助けないなんて、そんなの、医者じゃないじゃないか)  誰かを助けるためにきたなんて、命が救えないとダメだなんて、とんだ倣慢《ご∴ノぶ・八》だ。  倣《おご》ってはいけない。簡単に命なんか救えない。天の宿命《さだめ》に逆らってでも、傾《かたむ》いた命の秤《はかわ》を押し上げたいと思うのなら。  自分のすべてと引き替《ん》えにして、その命に温《り�》されるかもしれなくても、全身全霊《ぜんわl�》の力で。  華郷老師も、葉医師も、ただの一人も殺さなかったはずがない。  自分たちが当然のように学んできた数々の医術も、そうやってたくさんの医者が心をつなぎ、必死の思いで残してくれたものだったはずなのに。  医者でありながら誰かを殺してしまう矛盾《むじ? b人》と危険を冒《おか》してでも、それでもなお、誰かを救いたいと思う心がなくては。  命の秤は動かない。  そして、それこそが、命を柏手にする、医者となった者の|覚悟《かくご 》のはずだった。  彼は乱暴に涙をぬぐった。   ーぼくは、宝を、継ぎます、陶師匠《ししよ・リ》。  僕たちにすがってここまできたこの女性の希望を、何もしないままで砕《くだ》くわけにはいかない。 (僕は、医者なんだ)  彼は、一生懸命彼女に|微笑《ほほえ》み、その手をとった。葉医師がそうしたように、彼もまた。 「……はい、医者です。行きましょう。僕が、何とかします」  若い母親は、ぽろぽろと涙をこぼした。 「あり…がとうございます……! 誰も……そんなこと、言ってくれな……つ」  やがて、他の医師たちも涙をぬぐい、顔を上げた。  きまた一人執刀《し 「とう》を終えた葉医師は、入ってきた若い医者たちに顔を上げた。ただの一人も、欠けることなく。  命を背負う覚悟ができなければ、ここに戻ってこれはしない。  葉医師はこの目初めて、微笑んだ。 「……ああ−その顔なら、患者《わ人じや》を任せられる。よく、頑張《がんば》ったな。軽度の患者は向こうから寝かせてある。教えられることは教えた。最後の一つも自力で手に入れたな。一1——行け」  医師たちはただ領《∴ノなず》くと、ぎゅっと口元を布で覆い、患者の台に立った。                              晦         ぜ         勧  三日後−。  満天の星臭《はしぞ・り》のなかで、二崩《ここ》の音色が高く遠く響《ひげ》いていた。  火が、赤々と、天を衝《つ》くように燃えていた。  秀麗と燕青が最後の遺体を運んで、葉医師が火をつけたのは、月が中大を過ぎる前。それから数刻−衰《おとろ》えることなく燃えさかる炎《ほのお》の熱は、今が冬ということさえ忘れさせた。  ただの一人も一睡《いつす�l》もせず、丸三日にわたって|驚異《きょうい》的な精神力をもって執刀をつづけた医者たちは、助けられなかった患者の最後の一人が燃えるのを見届け、泣きながら謝りつづけーそして、気を失うようにして、次々と|倒《たお》れた。  結局、患者の三分の一が亡《な》くなり、三分の一は今もなお生死の境を彷裡《さまよ》っている。おそらく、数日のうちに半分は命運が分かれるだろうと、薬医師は思った。  助けられたのは、二人に一人。 「……わしの見る限り、一つとして、失敗はなかったよ……」  医者の中でただ一人残った葉医師は、炎を見ながら小さく呟いた。  すべての遺体を、葉医師は最後に調べた。  若い医者たちは、あの極限のなか、最後の一人まで、最高の|治療《ちりょう》を施《はごこ》していた。  ただの一つも、彼らの手で殺してしまった遺体は、なかった。  この数日で何か奇跡が起こったというのなら、それこそが奇跡だった。  わずかの|休憩《きゅうけい》のあと、いつだって真っ赤に泣きはらした顔をして、それでも彼らは必ず戻《もご》ってきた。それはまるで、遥かな苦の、華郷を見ているようで。  人殺しと罵《ののし》られながらも、小刀をもちつづけた華姉。 「……秀麗嬢ちゃん、|小僧《こ ぞう》どもを責めないでやってくれ。あれ以上のことは、誰にもできん……わしにもな。非難は、全部わしが受ける」 「どうして、責めるわけがあるんですか。……倒れたお医者さんたちを看病しているのは、亡くなった患者さんたちの家族や|親戚《しんせき》の方々です。それが、答えなんだと、思います」  ありがとうございました�何度も何度も繰り返しそう呟《 「バや》き、倒れた医者の手を|握《にぎ》りしめて涙をこぼした若い女性がいた。彼女の一子供は、いま、炎とともに天へのぼる。  秀麗は、ずっと弾いていた二胡の手を、止めた。|膝《ひざ》の上で疲《lつか》れ切って泣きながら眠《ねむ》っているシュウランの髪を杭《ノ∵�.」・》く。  シュウランの′母親も、まだ生死の境を彷捏っている。眠るのが怖《二わ》いと泣く彼女のために、秀麗はここのところずっと子守歌がわりの二崩を弾いて、なるべくそばにいてあげた。  リオウもつかず離《=∵�》れずでシュウランの傍《そげ》にいてくれた。リオウにはすでに家族はいないらしく、よくシュウランに引っ張り回されていたが、結局付き合っていた。言葉で慰《�∴、��》めることこそなかったが、それだけでもシュウランにはずいぶん慰めとなっているのは|間違《ま ちが》いなかった。  今もリオウほ秀麗の傍で寝転《ねころ》がっていた。もう一枚毛布を掛《か》けようとしたら、ぱちりと目を開けた。眠っていると思っていたが、どうやら目を閉じてただ二胡を聞いていただけらしい。 「リオウくん、寒くない?」 「::,な�。�1ハけり、レ田ルしとらーどうピ一毛布を突《つ》き返された秀麗は小さく笑った。最初から懐《なつ》いてきたシュウラソと違《ちが》って、リオウほなんとなく野生の獣《けもの》のようだったが、この三日でだんだんそばに寄ってくるようになった。 「いろいろ手伝ってくれたから、疲れたでしょう。眠ったら」  頭を撫《な》でると、リオウは鼻の頭に級《しわ》を寄せた。けれど何も言わず、また目を閉じる。まるで馴《な》れない子虎《二し」・り》の毛並みを撫でてあやしているような気分になった。 「手を尽《つ》くしてくださって、本当に、ありがとうございました、葉医師《せんけ∴‥》……」 「まだ礼は早いじゃろ。秀麗嬢ちゃん、夜が明けたら、石集村に行く気じゃろ」  秀麗は苦笑いした。 「……はい」 「他《はか》の医者は全部置いていく。どっちにしろ予後を任せとかんと。わしだけ連れてけ。−発病しないとかいうのを信じてふらふら山に入っちまった村人が、まだ残ってるんじゃろ」  発病していない者ばかりが人山したからといって、山に入ったあとで発病していないとは言い切れない。助けに行かなくてはならない人たちが、まだ残っている。  秀麗と燕青は、深々と葉医師に向かって頭を下げた。 「お願い、します」                                                                     ユ 「うん。さて、明けまでちょいと寝《.1》るとするかい」 「……葉医師」 「ん?」 「どうして、お医者になろうと思ったか、訊《ゝ、も》いてもいいですか」  火のそばに横になった葉医師は、子供っぽくコ? リと背を秀麗に向けた。 「……んー。ずっと医者やってりや、そのうちなんかがわかるとか自信満々に言いきったやつがいてなー。じゃーその|挑戦《ちょうせん》受けてやるうて九割方そんな単なる勢いで」 「そ、そぉですか」 「それに比べりや、あの小僧っ子どもは骨があるわい。……いい医者に、なるぞ」  やがて、くーくーと寝息《ねいさ》を立て始めた葉医師に、燕青が毛布をかけた。  秀麗の透明《し一うめい》な二胡の響きだけが、天にのぼる。  ぱちりぱちりと、火花が散る。  虎林城では、誰《だれ》もが疲れ切り、ここ数日の不夜城が|嘘《うそ》のように眠りに沈《しず》んでいた。  燕青ほ赤々と燃える炎を見つめ、両足を前に放《ほう》り出した。 「……女の入ってさ、いざってときほんと肝据《きー一Vす》わるよなー」  時に若い医者たちを怒鳴《ごな》り飛ばして、時に励《ょr》まして慰めて温かいご飯とお茶を届けて、|一緒《いっしょ》に泣いて。そして、三日間、お医者とともに縫合《ほうご∴ノ》をしつづけてくれた。 「……俺さー、あの針さばきすげぇ感動したよ。ナニワザ!?って感じ。俺、あの刺繍《しし沌う》とかって実はどっかの木になっててさ、商人がもいで売ってんじゃわーかって本気で思ってたんだけどさ、ほんっとうに人間が自分で縫《ぬ》ってたんだな。しかもすげぇ速いし。そこらにいるおばちゃんたちはただのおばちゃんじゃないんだなぁ」 「……ねぇ燕青、きっと『超《らよう》うまい鰻頭《支′八Lけ・J》のなる木』とかtl『散らかった室《へや》を一瞬で綺麗《い〕し撼八されい》にしてくれる不思議な枝Lとかもあると思ってるんでしょ」 「いやーはっはっは。うん」秀麗は二胡を弾きつづけた。眠るつもりはなかった。  たとえ自己満足といわれようと、最後まで葬送《お‥》ろうと思った。  ややあって、秀麗は葉医師を起こさないように小声で燕背に話しかけた。 「……燕吉、結局、�邪仙教″は両から出てこなかlつたわわ」  1……ああ一秀鰯の虎林郡到着《レ一−J�中・、》にあわせて、またぞろ何かへンな噂《・! わ¥》を立てるかとも思ったが、まるで元からそんな集川はいなかったかのlように、息をひそめつづけていた。 「じゃあ、やっぱり私の噂ばらまいたのも、発病しないとかいって村人集めたのも、みんな、単なる撒《た》き餌《J木》だったってことよね 「本気で秀麗が病の元だというのlなら、そしてそれを元に信者を増やそうと画策するのlなら、秀麗の虎林郡到着は格好のネタだったはずだ。けれど、彼らは何もしなかった。彼ら自身が、そんなことを信じていなかったのだ。すべては、病を利用してばらまいた、餌《・冬さ》。 「私と、影月くんに、何の用があるか知らないけれど」  まずは、影月を。そして次に秀麗を。  蔓延《ま人え・れ》しはじめた病。信者という人質《へ=とじち》。病の元が秀麗だという噂。そして、 「千夜�すべては、軍の護衛なしに、影月と秀礎を単発でおびき寄せようとするためのlお膳立《〓一∴.∴》て。だからこそ、秀麗がまったく軍を動かさずに虎林郡まできたことを知った彼らは、もうこれ以上何をする必要もないと判断したのだ。そんなことをしなくても、虎林郡の一病を収束したあと、秀麗が残りの村人たちを助けるために護衛なしにやってくることは容易に察しがつく。  そして、それを知ってもなお、連れていかれた村人と影月という人質を無事に取り戻すために、秀麗は身 「つで乗り込まなくてはならなかった。 「正直、そこまでされて呼び出される心当たりないんだけど……大体千夜ってねぇ……」 「なあ姫さん」  燕青が不意に語気を鋭《! ・? と》くした。じっと秀麗を見つめる。初めて、その名を言った。 「多分、あの教祖とかいうやつは違《ちが》う。けどな、もし今回の件にほんのちょっとでも朔洵が関《石∵几》わってたら、今度こそあいつをあの世にぶちこむぜ」珍しいー本当に珍しい燕青の本気の怒《.・.γ・》りだった。  以前の朔泡は、なんだかんだ言って、秀麗の大切なものを何一つ鯨《・−rl》わなかった。けれど、もし今回の�千夜″が朔洵ならば、もはや秀麗のことなどどうでもいいと思っているのだろう。  そうでなくては、ここまで何もかも踏みにじりはしない。  彼は、秀麗の性別さえも肢《おレ一L》め、|侮辱《ぶじょく》した。  惚《ー》れた陣《◆⊥》れたは勝手だが、だからといって、何をしてもいいはずがない。 「朔ちゃんが生き返ろうが何しょうが勝手だけどさ、マジで姫さんに何したか全然わかってねえってんなら、さすがの俺も頭にくるぜ。静蘭はもっとそーだろ?」  どこまで、秀麗を傷つければ気が済むのか。 「あいつのことで悩《キや》んでもオロオロしても|叫《さけ》んでもいーけど、今回マジでなんかやってたなら、その前に俺が静蘭の代わりにぶん殴《なぐ》ってとっつかまえて滝壺《たきりょlr》にどんぶらこだからな。言わなかったけど、朔ちゃんに関してはあの影月だって大激怒《だ�lイ‥きご》してたんだからな」秀塵は|驚《おどろ》いた。……あの影月が大激怒? 「嘘」 「ほんと。朔ちゃんが死んだっぽい直後なんか、もうカンカンに|怒《おこ》ってたぜL秀麗は心配かけないように頑張《�∵八.∴》ったつもりが、まったくバレバレだったことを知った。 「……ごめんなさい。でもまあ、今回は大丈夫《た∴∵しょう�》。本っ当に私も頭にきてるから」 「それに、朔ちゃんじゃないっぱいから?」 「……んー、それもあるわね。斜《なな》め後ろ向きな若様にしては、ちょっと頑張りすぎだもの」 「それはある。……なー姫さん、実は俺な、州府出るときに約束したことがあってさ」  �・」 「姫さんも影月も、みんな連れて無事に戻《もど》るってさ。姫さんにお花渡《わた》したいんだって」 「あら嬉《うれ》しいわね。大丈夫。私も王都で似たような約束してきたから」   へKと、浄倍刺と、�しして  ー。  帰ってきたら、野菜料理を作ってあげると、約束をした。 「……待ってるL生きて、帰る。山は越《二》えた。�邪仙教″相手に、命なんか賭《か》けてやれるわけがない。 「死ぬ気なんかサラサラないわよ。だから燕背に一緒にきてもらうんだし、なんのために悠舜さんと静蘭を州府に残してきたと思ってるの。|完璧《かんぺき》な布陣《ふじん》つくって乗り込むわよ」  秀麗は、今頃頑張《いまごろが′八ば》ってくれているだろう静蘭を思って、ちょっと|微笑《ほほえ》んだ。 「あのね、燕青、私、静蘭に傍《そげ》で守ってもらうのはすごく嬉しいのよ。でも、そのせいでちょっとでも怪我《!?が》してほしくほないわ。本当に大切だもの。だから、私が静蘭に剣《!?∵人》をもたせてしまわないように、頭使って頑張らなきゃならないわよね」燕青はくしゃくしゃと秀麗の頭を撫でた。 「愛されてるなー静蘭」  ぱちりぱちりと、火の粉が雪のように降る。  秀麗は、シュウランとリオウの頭をそれぞれ撫でた。  明日発《た》つ秀麗には、最後まで見届けてあげることはできない。ただ祈《いの》ることしかできない。  ・−……ど∴ノか。  願いだけを、残して。  葬送《そうそ.フ》の二胡《に二》の音が、星のなかに吸い込まれていった。                                                                                                            .へて  翌朝−。 「……おーい、葉のじいちゃん、時間だっつーの。起きてくれよー一                                                                                                                        ..  1ノありえないほど寒い野外のごろ寝にも拘《Jりノlり 題》らず、葉医師は気持ちよさそうにむにゃむにゃと何事か|呟《つぶや》き、燕膏の手をペいっと払《り∵り》った。 「ふーんだ。十文字髭太《しルうも人 「六∴��》の言うことなんかきかんわい……むにゃ〜」  くるくるっと毛布にくるまる。さすがに敬老精神あふれる燕青もこめかみを揉《一tJ一》んだ。  ……くそぉ……水ぶつかけて起こすか」 「燕青! そんなことしたらあっというまに毛布ごと|凍《こお》りついて死んじゃうじゃないのし 「いやでもありえねーよこのじ.いちゃん! くしゃみしたら晶水凍りつくくらいすんげ寒いのになんで寝てられんの。俺だって毛布一枚じゃきついぞ。俺のお師匠《.ししー♪∴ノ》並みじゃん」  秀麗は|膝《ひざ》の士に眠《上L》っているリオウとシュウランを乗せて毛布にくるまっていたので、ぽかぽかと温石のように暖かかった。 「……よかった。間に合いましたな」  さくさくと霜《しJり》を踏む足音とともに現れたのは、丙太守だった。 「柴凍殿《ご山》から、これを葉医師にと。ぎりぎりで器貝が完成したそうです。直後、柴凄殿も不眠《・み人》不休が崇ってとうとうお倒《...1一》れになり、私が……」  瞬間、《し時んかん》転がっていた葉医師がむっくりと起きあがった。  唖然《あぜん》とする燕青を尻廿《しりめ》に、葉医師は丙太守からその取っ手のついた四角い箱を受け取り、中を開いた。鍼《はり》、小刀、皿その他様々な新品の器貝がずらりと並び、所狭《と二ろせま》しと並べられた|小瓶《こ びん》にはこれでもかと言うほど薬が《lJ》詰まっている。 「……斡《くろむ》鉱石の合金か。熱にも錆《さげ》にも強い最高の鋼《はがね》じゃぞい。どこで見つけてきたか知らんが、最高の餞別《せ人ペ——ノ》じゃ。凛嬢《じ⊥う》ちゃんによくお礼を言っておいてくれい。薬師《ノ、すし》たちにしっかり看病させ                                                                 �√・㈵・.rてな。さー行くかー。ほれ髭髭《▼l−1▼し1.》、きりきり出発じゃーい」  ひらりと馬車に飛び乗った薬医師に、燕青はもはや言葉もなかった。  秀麗は膝の上の三人を丙太守に預けようと、起こさないように軽く措《心》すった。  瞬間、リオウが勢いよく飛び起きたので、秀麗は仰天《ヾ、ようlァ 「ん》した。 「わっ、ど、どうしたのリオウくん」  リオウはぎょっとしたように首を巡《めぐ》らし、状況《じlようさと・」》を理解すると唖然とした。  ……俺、まさか、寝《ね》てたのか……!?」 「そりゃ、寝てたわよ。頭が痛そうだったから膝に乗せたけど、全然気づかなかlつたくらいよ   .バ・、ト・いく爆睡してたわよ」  何だかわからないが、リオウが絶句している間に、シュウランももぞもぞと身を起こした。 「……うるさい〜……もう朝?あ、おはよう秀麗お姉ちゃん」  シュウランは秀麗を見ると、すりよるようにべったりと抱《だ》きついてきた。 「おはようシュウラン」  丙太守は、城郭《しようかく》内に姿のなかったシュウランを見て、にっこりと微笑んだ。 「シーユウラン、喜びなさい。今朝方《!?きがた》、お母さんが目を覚ましたそうだ」  三柏《リ‥・、》のち、シュウランの目がまんまるく見開かれた。 「本当!?」 「ああ、あとは安静にしていれば、もう大丈夫とのことだ。行っておあげなさい」  秀麗はぎゅっとシュウランを抱きしめた。 「良かったわね、シュウラン! 本当に良かった…! − 「う、うん……うん!」  シュウランは泣きながら秀麗にしがみついたあと、早速母の許《もし」》へ行こうとしー近くに止まっていた馬車や、燕青の旅支度《たげじたlく》に目を留めた。 「……あれ、秀戯お姉ちゃん、どっか行くの?」 「ええ。もう一頑張《!?lとがんば》りしなくっちゃならないことがあるのよ」  秀麗は今から、葉山に囚《と・り》われている残りの村人のために、石柴村に発《た》つことを告げた。  その瞬間、シュウランが叫んだ。 「ならあたしも行く! あたしの村だもん。絶対役に立つよ! |一緒《いっしょ》に行く!! 」      .一−rr一・ユl一J’ヽ  −一一.ヽ   ′.−1J 「ちょ、ちょっと待ってシュウラン。お母さんはどうするの。せっかく起きて、元気になり始めたのよ。傍にいてあげなくちゃ」 「お母さんには、ちゃんと話してく! だって、秀麗お姉ちゃんのおかげだもん。秀麗お姉ちゃんと影月お兄ちゃんが、お母さん助けてくれたんだもん。今度はあたしが助ける番よ。きっと、今朝お母さんが起きてくれたのだって、お姉ちゃんを助けなさいってことなのよ。だから一緒に行く。お母さんがいいって言ったら、いいでしょ?ね、待ってて!」 「え!?あ、ちょ、ちょっとシュウラン!!」止めるまもなく矢のように城郭内に走っていってしまった少女に、秀麗ほ|呆然《ぼうぜん》とした。 「リ、リオウくんからもなんとか……」 「オレも行く」 「なんで!?」 「……お前のつくるメシほまずくない」  ぼそっと呟いた言葉は、別に冗談でも何でもなく、本気で言っているようだった。  聞いていた燕青は爆笑《ぼくしょう》した。 「夫婦《ふう!?》みてー」 「燕青!」 「や、いーんじゃん。山に人らなきゃ|大丈夫《だいじょうぶ》だろ。実際、力になってくれるかもだぜ。子供だけが知ってることって、結構あるからな。それに今の石柴村にはあちこちからちょっとずつ復輿の人手が入ってきてるから、無人じゃねーし。だったよな? おじじ」 「ええ、そういった報告を受けております」  秀麗はバッと顔を輝かせた。 「……そうですか! じゃあ、石柴村の人もなるべく早く家に戻ってこれますね」  丙太守は静かに瞑目《めこlも! 、》した。引き留めることはできなかった。  柴山で、彼らにはまだすべきことが残っている。一刻の猶予l《時うょ》もなく。  本来は、それは虎林郡を治める丙太守の仕事のはずだった。 「……ひとつだけ、お留めおきください。朱温ですが……どさくさに紛《tゞ−》れて逃《こ》げ出したあと、葉山に逃げ込んだらしいとの報告が届いております。どうか、お気をつけて」  馬に�干牌″をくくりつけていた燕青が、振《・い》り返って|眉《まゆ》を上げた。 「マジフじゃ、あいつ信者だったのかもってことか。道理で食い下がったわけだ」 「一あとのことはこの老骨にお任せください。……どうか、杜州牧とともに、ご無事でお戻りくださいますよう」  丙太守は、地面に膝をつき、深々と脆拝《きはい》の礼をとった。 「虎林の民《たふ》を助けにきてくださったこと……心より御礼《おんれい》申し上げます」  秀席も燕青も苦笑いしただけで、それには答えなかった。  まだ、終わっていないのに、礼を受け取るわけにはいかない。 「秀麗おねーちゃーん、お母さんがいいってー! 頑張《がんば》ってきなさいってー!」   シュウランが全速力で戻《J’し」.》ってくるのを見て、秀麗は観念した。《′》|駄目《だめ》だと言っても、荷台にかじりついてもついてくるに違《ちが》いない。   馬車に秀麗と葉医師、それに子供二人を乗せて、燕青は駁者台《ぎよしやだい一》に落ち着く。  一度だけ秀麗とシュウランが丙太守に手を振り、二頭の馬が走り出した。   丙太守は、一人の護衛もなく駆《か》けていく上司たちに向かって、最高礼をとった。  �−白彼らのもとで官吏《カんり》を務められたことを、死ぬまで忘れることはないだろう。          午前昔lー.憂吾 「石集村への、復興の手配は終わりましたか、静蘭殿」   茶州府城埴城の一角−州ヂ《しゅういん》室に入ってきた静蘭に、悠舜は質問ではなく確認《かくにん》をとった。   静蘭は落ち着いて|微笑《ほほえ》んだ。 「はい、私《ヽ》で《ヽ》最《ヽ》後《ヽ》で《ヽ》す《ヽ》」 「今回は、他《ほか》にもずいぶんと頑張っていただきましたね。お見事でした。秀鹿殿が気がかりでしょうがなかったでしょうに」  静蘭は、本人がいる場所では絶対言わないことを言った。 「まあ、燕青が傍にいますから。それに奥様を先陣《せんじん》に残してきたのほ悠舜様も一緒でしょう」 「ええ……普通は、男が置いていくほうなんですけれどね……」  しばし、互いに自分を置いてスッ飛んでいってしまった女人を想《おも》って、違い目をした。 「ふふ、でも秀麗殿ほ、あなたがいてくれて本当に良かったと、思ってくれていますよ」  悠舜はにっこりと微笑んだ。 「行ってください。最後のツメです。秀麗殿と、ういでに燕青をよろしくお願いいたします」 「まあ、ついでなら。帰ってきたら、久しぶりに碁《▼l)》の勝負をしてください。もう簡単に負けませんよ」 「それは楽しみですね。でも秀麗殿の前で負ける|覚悟《かくご 》ができたらいらしてくださいね」静蘭は笑って、|踵《きびす》を返した。                                                                                                                                                                           lァhMh.HUuHJuHTl——.MH.1、....H ーHH⊥H.1−hUー.HHM1..で1  −.−H_1,1.kEl lH.1ノ                                          芦三                                                                                                                                                                      ∴.1ヽ・.1.・                                          ∴∵  《・・�.ン》『重石』がないぶん、行きよりもだいぶほやく楸瑛ほ貴陽に帰ることができた。 「1楸瑛、どうだった」  官舎まできた繹牧の姿に、鍬瑛ほ|驚《おどろ》き−そして苦笑いした。 「……何もできなかったよ。本当に送ってきただけだ」 「それをいうなら、俺はさらに何もできてないが」 「……配下が|面白《おもしろ》いことを言ってね。ちょっと考えさせられたよ」   立場が逆になってみないと、わからないことがある。  楸瑛を置いて、駆けていった少女。戦いに行くというのに、ただの一つも武装をせずに。   それでいて、静蘭や、楸瑛や、掌《てのけら》にあるものすべてを守ろうとしている。   武力は最後の手段にでもするべきではないと、言った彼女。   当然のように手段に武力を置いてしまう者の、どれほどが、同じ選択に辿《せんた! 、たど》り着けるだろう。 「……埋想かもしれない。でも、本気で武器を持たないで飛んでいった秀麗殿《どの》なら、もしかしたら……可能かもしれない」  無策でも無謀《むぼう》でもない。考え抜《ぬ》き、勝算をつかんだうえで、彼女は駆けた。埋想を、現実にする力を、彼女はちゃんともっている。 「ねぇ経仮、私は秀麗殿の目に映る閂を、とても見たくなってきたよ」  何もできずに、彼女を一人で送り出したときの、牡《はら》に何かがたまるような嫌《いや》な気持ち。  ……残される者の気持ち。いつも剣《!?ん》をもって先に行く楸瑛の目には映らなかったもの。 「やっぱり、みんな幸せなはうがいいからねぇ」  彼女が最後の一線で踏ん張るなら、そんな想《おも》いをすることも少なくなる気がしたから。 「帰ってきて、出世してほしいな、とね」  絳攸は微《か丁》かに笑った。 「……そうだな」 「ずっとそんなふうに待ってばかりの上が、いちばんつらいだろうけれどね」  楸瑛はポッリと|呟《つぶや》いた。  劉輝ほ一人きり、長い長い間、その高楼《こ・? ろう》の前で待っていた。  すべての護衛を排《宣1》した。身を守るものは、この�莫邪《ばくや》″一口《ひとふり》のみ。  ……前と同じように、双剣《羊こフ!?∵ん》の片割れは鳴いていた。  仰向《あおむ》いた劉輝の目に映る高楼は、一見したところの質素な印象とは裏腹に、随所《ずいしょ》にびっしり  と施《ほごこ》された精緻《せいち》な彫刻や飾《ちょうこくかぎ》り細工、さりげない華《はな》やかさを添《そ》える数々の画《え》、計算し尺《つ》、くされた|絶妙《ぜつみょう》な設計と相まって影絵《かげえ》のように際《きわ》だち、見れば見るほど美しさを増す。    き∴∵バつせん  つご         せんとうきゅう   彩八佃が集うという、仙洞宮。   神祇《じ人ぎ》の一族、標《ひよう》家の人間がつくったというこの宮の前なら、待ち人が来る気がした。   そして、不意に、その時は|訪《おとず》れる。   気配を感じて振り返れば、まるでふらりと雪見にきたような、雅《みやげ》やかな装束《し上Tつぞく》をまとった男が仔《たたず》んでいた。雪よりも《ま》轡見る、月のしずくをたらしたような銀つむぎの髪《かみ》。夜を切りとったような|漆黒《しっこく》の双降《そ∴ノぼう》は、二十前半の相貌《そうばう》にそぐわぬ深みがあり、歳《とし》の判別を|曖昧《あいまい》にする。   当主朝質《ちょうが》に赴《おもむ》くかのごとき見事な薄藍の正装を彩《いろど》る�月下彩雲《げlリかさいうん》″に架《か》かるは、真円の月。   ……待ち人、きたれり。   劉輝は体ごと男に向き合うと、何を言おうか考え−まだいっていない言葉に気づいた。 「明けましておめでとう、繰家のご当主殿。当代国主紫《し》劉輝、お初にお目にかかる」   ……しんしんと感情の見えなかった男の陣が《ひし」み》、ふと、やわらかく笑《え》んだ。          昔軒・掛�l夢�‰ 「…山の下での病は、収束したようだよ、影月。女州牧が、王都から治療法《ちりようほう》を見つけて駆けつけてきてくれたってさ。ちらほらと石柴村にも人が戻ってきて、復興しているというし」  やってきた『華眞』の言葉に、影日の目が見開き、次いで深い−深い安堵《あんご》の|溜息《ためいき》をついた。  くつくつと、『華眞』が噴《わら》う。捕《と》らえてから、時たま彼はこうして影月の元を訪れた。 「よかったね。ずいぶんと、気にしていたみたいだからね」 「……その顔で、腐《くさ》った笑いかたしないでくださいと何度言ったら聞いてくれるんですか」 「おやおや。|優《やさ》しい性格だと聞いていたのだけれど。第一、それは私の台詞《せりふ》だよ。まったく……もうすぐ消滅《しようめつ》すると聞いていたのに、ずいぶんとしぶといじゃないか」 「華眞Lは微笑んだ。優しくーこのうえなくされいに。 「何度も言ったね。欲しいのは『影目《きみ》しじゃない。早く死んでくれないかな」  影月はゆっくりと瞑目《めいもく》し、そして暗いだした。   ーそんな台詞は、生まれてから四年間、他《はか》ならぬ実の家族から何千回と聞かされてきた。  今さら、なんの感銘《かんめい》も受けやしない。 「……|冗談《じょうだん》じゃないですね。そんなのは僕の勝手です。指図しないでください。それと」  影月は目の奥に炎を灯《はのおとも》した。 「1——とっととそ《ヽ》の《ヽ》体《ヽ》から出て行ってください」 「本人だと言っているのに」 「文字通り、どのツラさげてそんなこと言えるのかまったく不思議ですね」  華眞の顔をした男は、小さく肩《かた》をすくめた。 「どうしてバレたのか今でも不思議なんだよなぁ。ちゃんと本人の死体使ってるし、我ながらうまくやれたと思ったんだけれど。嬉《うれ》しいとか、まさか!?とかで追っかけてくるのほ予想してたのに、近寄ってもいないのにいきなりバレたうえに、ぶち切れて追っかけてくるとは思わなかったよ。まあ君一人釣《つ》り上げるのは予定通りだから結果良しだけどさ」  毎日手を繋《つな》いで歩いたその指も、優しく名を呼んでくれた声も、抱《だ》き上げてくれた腕《うで》も、確かに影月が誰《だれ》より愛した人のもの。   けれど、あの笑顔《えがお》だけはこの世でたった一人にしか|浮《う》かべられない。   どんなに遠くたって、|間違《ま ちが》えるわけがない。  見ているほうまで幸せになれるような、真実優し糧にあふれた、日だまりのような笑顔を。   柴山の麓《ふもと》で笑ったこの男を見たとき、突《つ》き上げた怒《し �》りに|目眩《め まい》がした。    −そこにいるのは、誰だ。   その顔と、その体を、汚《けが》し、定《おとし》め、辱《はずかし》め、利用しているヤツは誰だ。   そうー何度だって追いかけた。   あんな笑いかたを、あの人がするものか。形だけ|真似《まね》ても心まで写しとれはしない。どこか一皮肉めいて酷薄《こくはく》な目つきで、騙《だま》せると思われたこと自体頭にくる。  一静かに|眠《ねむ》るはずだった亡骸《なさがら》を、ただ自分一人を誘《おぴ》き出すためにこんな形で利用して−。  ′誰が許しても、影月は許さない。  ーその顔で笑まれても、その手で杭を打たれても、その声でいくら冷罵《れいば》されても、何一つ響《ひげ》くわけがない。 「……くそったれ」 「……ねぇ君、本当に『杜影月』だよね? なんかずいぶん調書の性格と違《らが》うんだけど」 「ふざけんじゃないですよ。いくら僕だってここまでされて怒《おこ》らないわけないでしょう。|寿命《じゅみょう》は切羽詰《せつぱつ》まってるし、失恋《しっれん》はするし、あげくの果てに両手に杭打たれて閉じこめられて、ふざけた顔で教祖とか言うやつはいるし。痛いし頭にくるしーやってられませんよまったく」 「……失恋までぼくのせいにしないでほしいなぁ。八つ当たりじゃないか」 「うっさいですよ。だいたい何ですか�千夜″っていうのは」 「うん? 念には念を入れて。いちばんの本命はあの女って言われたからさ。調べたら、いちばん引っかかりそうな、本物でも偽物《にせもの》でも飛んでこないわけにはいかないネタっぽいから、使わせてもらったんだ。死体も消えてるっていうしき。正直、あっさり偽物だとバレると思ったんだけど、意外と迷ってくれたよねぇ」 「実際こんなことしそうなくらいバカなことしてたんで、信憑性《Lんげようせい》があったんですよ」 「あはは、辛辣《し・へ・りつ》だなー。でも別に君に害はなかったほずだろ。なんで怒ってるの」影日の目にある感情が閃光《せんこう》のように|瞬《またた》き、すぐに消える。この男に言うことではなかった。 「……陽月はともかく……どうして秀麗さんまで必要なんですか……」  陽月が『何』であるかは知らないが、不可思議な力をもっているのは確かだ。同じような術を使っている彼らが『陽月』を手に入れたいと思うのはなんとなく理解できる。共通項《−1】−つ》でくくれる部分に、その『理由』があるのだろう。   けれど、秀麗は本当にごく|普通《ふ つう》に育ってきた少女なのだ。こんな怪《あや》しい集団につけ狙《ねら》われるような後ろ暗いところはどこにもない。   すると、華員の顔をした�千夜″が興味なさそうに肩をすくめた。 「さあ? 理由なんか教えてもらえる立場じゃないんでね。どうでもいいよ。女のほうも今度こそ本物がくるみたいだし、ぼくの仕事も一段落だね。あとは待つだけ」  影月は|眉《まゆ》を寄せた。……今度こそ?  「……本物って、なんですか。秀麗さんが図《おとり》を使うわけがありません」 「ああ、違《らが》う違う。バカな信者がこないだ早とちりして娘《むすめ》を引っかけてきただけだよ。石柴村でうろうろしてたから本物だと信じ込んで連れてきたら人違《ひとちが》いってやつ」  �千夜″は、そばの岩壁《がんペき》に寄りかかった。    「……でも、外の世界っていいね。びっくりしたよ」    「……ほ?」 「ぼくの一族って、男は一人をのぞいて冷遇《れいぐう》されてるんだ。男って子供産めないだろ。だから期役立たずってわけ。特別な例外をのぞいて、代々の当主は女だし。それが普通だと思ってたか…ら、びっくりしたよ。話には聞いていたけど、本当にこっちじゃ男ってだけで色々な特権もっ似てて、女を支配できるんだ。いいなー」ノ  影月は|妙《みょう》な顔をした。……そんな家の話は聞いたことがない。  《⊥》 「『狩《か》り』ができる男はまだいいんだ。使えるからって大事にされる。でも、ぼくみたいな能無しって、クズ以下なんだ。こんなときにでも頑張《がんば》っておかないと、使い捨てられて殺されちゃったりするし。こっちにきてすごい理不尽《りふ‥し人》に思ってさ。そうだよ、男に生まれたってだけで、何だってあんなに差別されなきゃなんないんだ。そんなのぼくのせいじゃないのにさ」  影月に聞かせると言うより、たまりにたまった鬱憤《うつふ人》を吐《は》きだしているといった感じだった。  どんどん子供っぽくなる口調に、影月は、もしかしたら堂主様の体を何らかの術で動かしているのは本当に子供なのかもしれないと思った。 (……術? そういえば、術が使える一族って)   春姫と英姫の顔がひらめく。確か、あの二人は−。   本物の華眞が浮かべるべくもない、昏《くら》い愉悦《時えつ》が響く。 「だからさt、女だから悪いとかっていうやつ? バラまいてすっごいスカッとしたんだよねー。散々ひどい目に遭《缶り》ったらしいじゃんその女。あははは、いー気味。 「お母様』、ものすごい怖《こわ》いんだ。まだお館《やわ.た》様がいるから救われてるけど、ビーせその女もそんな感じなんだろ。男                                                                                                                                                                                                                                                         −ノ°——の上に行って支配したいっていうさ。あーやだやだ、やだわー。今のうちに《▼》漬しときなって。  こっちはほんといいよ。信じられない。妙に知恵《ちえ》づけないで飼い馴《な》らすとああなるんだ。うまいことやったよね。ぼく、この仕事終わったら本気でトソズラしてこっちで暮らそうかなー」  ふっと、�千夜″の表情に翳《かげ》りがさした。 「……ま、ビーせ無理だけどさ……死んでも逃《に》げられないもん。だから」  �千夜ケの右手が無造作にひるがえった。  次の瞬間、《しゅんかん》影月の右足に飛来した小刀が深々と突き刺《さ》さっていた。 「   つ!!」 「逃げようとかなんて、考えないでほしいなぁ。ぼくが『お母様』に殺されちゃうんだ」  近寄った�千夜″は小刀を引き抜《ぬ》くと、おもむろに両足の腱《けん》をそれぞれ断ち切った。  影月の頭の中が真っ白に染まる。 「……ちょっとだけ羨《うらや》ましいんだよね。君って、男のくせに『お母様』に必要とされてるからさ。君っていうか 「陽月トー1つてほうだけど。……ぼくだってさ1、少しは褒《圭》めてもらったりとかしてもらいたかったよ。今はもうあきらめてるけど、苦は夢も見てたよ。優しくしてくれないかなぁって。何も好きで男にも無能にも生まれたわけじゃないしさ。でもあの人って、ずーっと一人しか見てないんだもん。こっちの『お母様Lは子供に優しいんだってっl・いいよね。今からでも、誰かぼくの『お母様Lになってくれないかなぁ……」  |前髪《まえがみ》をつかまれ、子供のように首を傾《かL》げてのぞきこまれた。  その瞳《けとふ》には、正気と狂気《きょうヽし》の狭間《はぎま》を賠《わ》れ動くような光が灯っている。 「ねぇ、君のお母様は、優しかった? L 「……殺されかけて……食べられかけましたけどね」  ″千夜″の目が丸くなった。みるみる同情と憐憫《れんげん》が浮かび、小刀を無造作に床《ゆか》に投げ捨てた。 「ほんと? そうなんだ。ごめんね。念には念を入れて目もえぐっておこうと思ったけど、やめてあげるよ。あーあがっかり。女に夢見るもんじゃないんだなー。現実は厳しいよね一そのとき、白装束《しろしようぞく》の信者の格好をした男が五人ほど、�千夜″を迎《むか》えにきた。  見るたびにいたぶられ、ポロポロになっていく影月を見て、中の一人が眉を寄せた。 「……若君、死なぬとはいえ、あまり余計なことをなさいますな。この少年のなかに封《ふう》じ込めているのは、かの�畜薇姫《ば・りひめ》″と同等の力を持つ、強大な�仙《せん》″です。最強度の結界を張ってはおりますが、�薔薇姫″の折と同様、いかなる手段で破られるやもしれません」 「はいはい。『お母様』の繰家再興大計画ね。先代のとき、�薔薇姫�一人であんなに臓《ま′J》きかせられたんだから、今度はいるだけかき集めて利用するなんて、何でも欲しいものは手に入れる『お母様』らしいよねぇ。かの�彩八仙″まで道具にしてさ。女って、どこまで貪欲《ごんよく》になれるんだろーね。怖すぎだよ。ところで、いい加減早くもとの自分の体に戻《もご》してほしいんだけどね。二人とも釣《つ》れたし、いいじゃんもう」ぶつくさ不平を言いながら|踵《きびす》を返す�千夜″に、影月は喉《のど》を必死で震《ふる》わせ、声を絞《しぼ》りだした。 「……待って、ください」 「なに?」 「……あなたは……あの病の流行を……知ってた、んですか……」 「なんだ、つまんないこと訊くね。知ってたよ。だから利用させてもらったんだもの。二族の仕事柄《しことがら》、みんなあっちこっち飛び回ってるからさ。暦、《こよみ》気候、地形の変化、目星の動き、動物の移動、それによって生じる地上への|影響《えいきょう》−諸々《もろもろ》全部本家に送っていつも解析《かいせき》してるから、それに関係することなら、どこで何が起こるかの予測と対処は大体出来るからね。さすがに治《ち》療法ま《り�−そつほ・フ》では知らなかったけど。うん、よく見つけたと思う。役人にしては頑張ったよね」  影月の凄絶《せいぜつ》な眼差《まなぎ》しを受けて、�千夜″の目に|侮蔑《ぶ べつ》の光がともった。 「何、怒ってるの? でもね、ぼくたちだって君たちを守るので|精一杯《せいいっぱい》なんだよ。あっちこっち飛び回る魅魅魅魅《ちみhYつりょう》を退治するのでね。何でそこまでやってやんなきゃならないの。それってさ、ぼくらの仕事じゃないでしょ。お役所と、朝廷《ちょうてい》の仕事でしょ〜何十年に一遍《いつペん》、水のせいで何か起こるとか透でわかってながらさ、みんな人ごとで、都合悪いことは全部天罰《てんぼつ》ですまして終わりの、他人任《ひとまカ》せの人たちのせいでしょ? それって、自業《じご∴ノ》自得じゃないの。いっとくけどね、ぼくたちだって、この山にきたとき、山から下りて言ってあげたんだよ。『これから悪いことが起こるから、水は全部沸騰《ふつとう》させて使うべし〜』って。うん、笑われて石投げられて終わり。で、結局あーなったわけ。でもね、知ってたよ。どうせ聞かないだろうってね。自分の身に降りかかってからじゃなくちゃ、入って何にも考えないだろ?」影月の視界で、�千夜″の姿がぼやける。  強く食いしばった層の端《くちびるはし》が切れて、新しい血が伝い落ちる。   −|目眩《め まい》がした。 (その顔と、その声で)  そ《ヽ》ん《ヽ》な《ヽ》台《ヽ》詞《ヽ》を《ヽ》吐くのか。  誰《だわ》よりも人と命を愛したあの人の、口から−! (許さない)   ふざけるな、と|叫《さけ》びたかった。  影月は惑《まど》わされない。もっともらしいその言葉の奥にある、刃《やいば》のような悪意を。  けれど感情をぶちまける前に、意識の糸がついにちぎれー深い、深い闇《やみ》に沈《しず》んだ。          ・翁禽魯命 「……じゃ、香鈴は、シュウランたちが石菜村にいるときにはこなかったのね?」  駆《か》けに駆けて石柴村を目前にした秀麗たちは、村には入らず、その少し手前で夜営をすることにした。石菜村を見張られている可能性は高い。秀麗の|到着《とうちゃく》を知った�邪仙教″が、何らかの警戒《けいかい》や手段を講じるのは可能な限り避《さ》けたかった。 「うん、そんな女の子はこなかったよー。はい、お野菜切ったよ」 「ありがとう、シュウラン」  夕餉《ゆうげ》の支度《したく》をしながら、秀麗は|眉《まゆ》を寄せた。……結局、虎林城にきた全商連の荷馬車の中に、香鈴の姿はなかった。治療と看護で手一杯《ていっぱい》だったのと、荷馬車の往来が激しすぎて確認《かくにん》がとれなかったが……もし香鈴が虎林城にきていたら、|間違《ま ちが》いなく郡城にいる秀麗を訪ねたはずだ。   それがきていない、ということは。 「あー……|途中《とちゅう》で荷馬車から降りて、一人で石柴村に駆けてったんだろな……」  リオウに薪割《まきわ》りや水汲《みずく》みを手伝わせながら、燕青は|溜息《ためいき》をついた。ちなみに葉医師は、一人  ご|機嫌《き げん》に酒を飲んでご飯の支度ができるのを待っている。 「でも石柴村には、香鈴いなかったんでしょフ」  一度、一人で先に石菜村の様子を見に行った燕青は、ちょっと顎《あご》を引くように領《うなず》いた。 「うん、おっちゃんからじいちゃんまで三十人くらいでせっせと掃除《そうじ》したり、薪と《たきぎ》りにいったり、雪で倒壊《とうかい》したとこトンカソ修理してただけ。誰も香鈴みたいな娘さんは見てないってさ」 「じゃ、その女は村がポッカリ空白地帯になったときにうっかりきて、うっかり山につかまったんだろ。�邪仙教″ってのはお前を生け勢《にえ》にしたがってたんだからな」  リオウが馬車に積んでいた薪をおろしながら、ちらりと秀麗を見た。リオウほ本当に頭の回転が速い少年だった。確かに秀麗も燕青もそれしか考えられなかった。 「……確かに、それっきゃねーだろなぁ。間違いなく姫さんと勘違《か人ちが》いされて�邪仙教″にとっつかまったな香鈴……若い娘が《むJめ》一人で誰もいない村にくりやあ、そりゃ目立つって……。うーん、助ける人数が一人増えたぞ」  助ける?  秀鹿はふと沈思《ちんし》した。妙に違和感《みょういわかん》のある言葉だ。  香鈴は焦《あせ》ってはいるかもしれないが、冷静だと柴凛は言っていた。秀麗もそう思う。後先をちゃんと考えて行動している。では、うっかり�邪仙教″に捕《つか》まったとして?いま、彼女はいったい、何をしているだろうー?                               l曝         野  香鈴は閉じこめられた暗い牢《ろう・》で、必死に発病した人の看病をしていた。   低いうめき声が、絶え間なく響《ひげ》く。 「お水です、ゆっくり……そう、ゆっくり飲んでください」  芋……お前が、女州牧ってやつだな』   そんな声とともに、背後から殴《なぐ》られ、気づけばこの牢の中にいた。   低い声と鼻を衝《つ》く腐臭《ふしゅう》のそこには、何人もの人が寝転《ねころ》がって岬《∴ノめ》いたり、じっとうずくまっていたりした。目をこらせば、特に寝転がっている人の腹部が不自然に膨《こ‥ノ、》らんでいるのがわかる。  影月や燕青から石柴村の病の話を聞いていた香鈴ほ、すぐに察した。同時に、ここがどこかもわかった。石柴村で、まだ病の人がいるとしたら。    −柴山の�邪仙教�   失神する前に聞いた声から、自分が秀麗に間違われたこともわかった。   おかげで、気づいたこともあった。 (……もしかして、ここに秀麗様がいらっしゃる……?)   まるで待ち構えていたように背後から|襲《おそ》ってきた。ということは、あの誰もいない村隼——いや、柴山に、秀麗がくると彼らは知っていたのだ。 (そうだわ……いらっしゃるはずですわ。秀麗様も燕青様も、ここに囚《しし・り》われている人を見捨てるはずがありませんもの。それに〜)香鈴はゆっくりと目を見開いた。石菜村で消えたという影月は、もしかしなくても。 (柴山《ー」こ》に、いらっしゃる……?)  わかったからこそ、香鈴はここで出来る限りのことをしようと思った。  影月をさがすこと、看病をすること、逃《こ》げる|隙《すき》を見つけること、しっかりご飯を食べて体力をつけること−。  なんとか実行しているうちに、ほんの少しずつ、できることが広がってきた。 「さ、ご飯を召《め》し上がってくださいな」  老人に食べさせているご飯は、香鈴が作ったものだ。あまりにもひどい食事だったため、下っ端《は》の男たちにあれやこれやと言葉を弄《ろう》して、なんとか譲歩《じょう元》を引き出した。  香鈴がいちばん元気で健康な以上、自分がしっかりしなくてはならなかった。  ……目を閉じれば、最後に見た影月の顔がよぎる。 (ここに一このどこかに、おいでに……)  香鈴は仰向《あおむ》いて、深く息を吸った。にじみそうになる涙《なみ〆》を、ぐっとこらえる。 『……多分……ひと月、保たないでしょう』  ……|大丈夫《だいじょうぶ》。大丈夫。まだ、半月と少し。  まだ『影月』は、消えていない。信じてる。きっと会える。! いいや。 (望みのものは、自分の手で)   さがして−迎《むか》えに行きます。 『顔を上げて、香鈴し  秀麗の声が聞こえる。……はい、秀麗様。   助けは必ずくる。それまで、ここで、できることをするのだ。   今まで見てきた人たちが、いつだってそうしていたように。   もう、助けられるのをただ待つわけにはいかない。   影月だけではない。あの人が助けたかったもの丸ごと、支えてみせる。   香鈴は、再び看病を始めた。          噂帝埼   � (私が香鈴だったら、何をしてるかしら?)   秀麗は貝材を切る速度を緩《ゆる》めた。   非力な女の身でつかまって、それでも助かるために、何をしている?  一人では無理でも、助けがくると知っているなら、そのときのために何をしている?   何かの糸口がつかめそうな気がして、秀麗はご飯を作りながら沈思した。 「そーれにしてもどうすっかなー」  燕青は秀麗の隣《となり》で、丙太守から預かってきた紙を広げた。そこには、迷路のようにあちこちに枝分かれした図面が見える。石柴村の住人に描《か》いてもらったものだ。 「�邪仙教″ほ、柴山石採掘《さいくつ》用の坑道《こうごう》を利用してるっていってたよな。煮炊《にた》きの煙が《けむり》あがってるのを見たっていうのが、ここらへんでー」燕青の指が何気なく一点を弾《はけし》くと、シュウランが声を上げた。 「煮炊きの煙いー?そんなの前はなかったよねーリオウっ」 「……なかったな」 「あ、リオウくんちょっと待って。あかざれに薬ぬってあげるから」  秀麗はリオウの手をとった。驚いたように手を抜きかけたリオウだが、やがて秀麗の手に指を預けた。ふと見ると、そっぽを向いた横顔には、珍しく子供らしい素直《rなお》さがあった。  一方、シュウランは興味を引かれて燕青のところへいくと、図面をのぞきこんだ。 「あっ、それにこの地図ちょっと足りないー」 「へ、足りない?」 「毎日色々探検して回ったから、あたしよく知ってるんだ。結構色々抜《ぬ》け道あるのよねー。大人が通れないとこもいっぱいあるけど、あちこちに顔出せる抜け道とか」得意げに胸を張るシュウランに、燕青は目を丸くした。 「マジで?じゃ、ちょっと教えてくれよ」 「いいよ一  燕青はシュウランとリオウから教えてもらった新しい道を付け足していった。   リオウの手当が終わると、秀麗もそのそばによった。 「あの白い人たちねー、ちょっと前から、なんかすっごい朝早くに荷車ひいてどっかに行って帰ってくるようになったんだよ。それも知ってる?」 「……ああ。復興のおっちゃんたちも見てるって」  燕青の歯切れが妙に悪くなった。図面のうち、いくつかを指さす。 「朝早く薪と《たきぎ》りに行くおっちゃんも、この入り口から白装束《しろしようぞく》の男たちが毎朝出入りしてるのを見てるって言うから、|間違《ま ちが》いなく拠点《きよて人》としてはここらへんの坑道を使ってる」  秀麗は首を傾《かし》げた。 「……毎朝出入りって、なんのために?」 「死体の運び出しか、髭左《けげぎ》?」   葉医師の鋭《するど》い言葉を、燕青は否定しなかった。秀麗は顔色を変えた。 「……じゃ、やっぱり……?」 「……そう。病気にならないって言葉を信じてついてっちまった村人たちのなかにも、あとから発症《はつしょう》したやつがいるってことだ。十中八九、なかにはまだ病人がいる。発症してないやつも|一緒《いっしょ》に監禁《かんきん》されてるなら、かなり弱ってるだろな」  秀麗は予想通りの事態に歯がみしたくなった。 「やっぱり『発病しないhってのは信者集めってより、このときのためだったわけね。いずれ自分から動けなくなる人質《ひとじち》なら逃げ出す心配もないし、私たちの動きも制限できるから」  まず村人がつかまってるとこがどこかさぐりだして、全員無事に救出できる手立てを考えてからでないと、�邪仙教″に乗り込むのはかなり危険だ。人質にされるおそれがある。  燕青は乱暴に頭をかいた。 「あーもう、時間がありゃ、いくつか策は思い浮《.つ》かぶんだけど、病人の方に時間がないからな。それも考えてたんだろうな。やっぱ静蘭に頼《たよ》るのは最後の手段か。下手に踏み込めば病人人質にされたあげく、火でもかけられてあっさり皆殺《ふなごろ》しだ。一兵でも連れて乗り込んでりや、|今頃《いまごろ》救出策練る|隙《すき》もねーほどがっちり人質楯《たて》にされてただろな……。|偉《えら》い、姫さん。ありがと」 「……だめ。全員無事に助けられたら変《ま》めてちょうだい」頑固《がんこ》なほど自分に厳しい秀麗に、燕青はちょっと笑って領《うなず》いた。   そばで聞いていたシュウランは、ドキドキした。 (すごい)  会ったこともない村人の命を、ここまで真剣《しんけん》に考えてくれるのが信じられなかった。本当に、全員無事で下山させることだけを考えてくれている。 (あたしたちのときも、きっとそうだったんだ)  たくさんたくさん考えて、誰一人《だれひとり》とりもらさないように、同じように頑張《がんぼ》ってくれたのだ。  あんな、別に大きくも石以外の取り柄《え》もない、村のために。そう考えると、胸が熱くなった。    うれ    壺百ノ.いつlこ0  (影月お兄ちゃんも、秀麗お姉ちゃんもすごい)   シュウランの胸に、ある想いが萌《きぎ》した。できるかどうか、あとでリオウに訊いてみょう。   秀麗はもう少しで何かがつかめそうで、眉間《みけん》に敏《しわ》を寄せていた。    −時間がない。一刻も早く助け出して、|治療《ちりょう》をしないとどんどん手|遅《おく》れになる。 (香鈴)   中で囲われているほずの香鈴。影月は向こうの『本命』ゆえ、厳重に警備がされているだろぅ。だが、香鈴なら人違《ひとちが》いとわかった時点で、他《ほか》の村人たちと一緒に、適当な牢《ろう》に放《はう》り込まれているはずだ。相手はなぜか知らないが『杜影月』と『紅秀麗』に的を絞《しぼ》っているのだから、他はたいして重要ではない�。   香鈴が、どんなに機転が利《き》いて、度胸もあるかは秀麗が知っている。でなければ、夏に秀麗の身代わりとして、茶草洵《そうじゅん》相手に最後まで|騙《だま》し通せたわけがない。   彼女を助ける、のではなく、むしろ一。 (煮炊きの煙)   少し前まではなかったという、その煙。   囚われている村人たちと一緒の牢にいるはずの香鈴。彼らの知らない抜け道。   もしかしたら�。 「……燕青、毎朝、死体が運び出されてるって言ってたわよね」 「ああ」 「ご飯作り終えるまえに、ちょっとした考えが浮かんだわ。聞いてくれる?」  秀麗は手巾《てねぐい》で、手をぬぐった。 「−できそうなら、決行は、今からすぐよ」               菌   争恕野  汁                                                                      、たい..・  燕青は即断《・てくご∴》した。秀麗の話を聞いてすぐに、葉医師と二人で石柴村に飛んだ。  葉医師を乗せて馬を駆《か》りながら、燕青はガックリと肩《かた》を落とした。 (あーもう俺、めっちゃくちゃ静蘭に八つ裂《ぎ》きにされそう)  いくら急を要するからと言って、秀席と子供二人をとっくに口が沈《しず》んだ時刻に置いてきてしまったのだ。あちこちに獣や侵入者《けものしんに時うしゃ》用の罠《わな》を仕掛《しカ》けてはきたが−。 「いいから行って! あとは運! なんとかなるわよ。どうせ村と目と鼻の先なんだから、悲鳴上げれば燕青ならすぐ戻《一Ur−》ってきてくれるでしょ』ためらう燕青だったが最後はそう当の本人に蹴《ナ》っ飛ばされた。                                                         つ轟 「葉のじいちゃん、今は寝《 ‘》てもいーけど、ちゃんと明日の朝、絶対目え覚ましててくれよな」 「おーう。酒あれば大丈夫じゃい」 「飲み過ぎだっつーの! つーかそれじゃ寝るだろ!!」  ぽつぽつと灯《あか》りが見える。石柴村だ。                                                                                                                           .——1   燕青はふと目を細めた。村の口に、馬が一頭と、誰《/とJl》かいる−。   それが誰だか知って、燕青は笑った。手綱《ハー.つな》を引く。 「よう、静蘭。きっすが、ちょうどいいときにきてくれたぜ」   ついさっき|到着《とうちゃく》した静蘭は、馬の|汗《あせ》を拭くのをやめて、顔を上げた。 「……子供二人と置いてきた? ふざけてんのかお前」 「やー。すぐ帰るから|勘弁《かんべん》! どっちみち夜中にシュウラン連れてこなきゃなんねーし」   葉医師にとりあえず民家の一つで仮眠《かみん》をとらせたあと、燕青は手っとり早く静蘭に秀麗の立てた『計画』を話した。静蘭はすぐさま肯《うなず》き、手配した。   静蘭に手綱を預ければ、燕青がここにいなくてももう|大丈夫《だいじょうぶ》だった。 「……お嬢様《‥しょう曳しま》はどうしてる?」 「大丈夫。五体満足で元気元気」   燕青は馬のところまで戻りながら、にやっと笑った。 「よく今まで|我慢《が まん》したなーお前。偉い偉い」 「……うるさい」 「姫《ひめ》さんさ、お前が後ろにいてくれるから、|完璧《かんぺき》な布陣《ふじん》たてられるって言ってたぜ。あとお前がすごーく大切で、ちょっとでも怪我《けが》して欲しくないから、自分が頭使って頑張るってさ」  ゆっくりと静蘭の目が見開かれる。口元に手を当て、息をつく。  ……ずっと、無傷で守ることばかり考えていた。  けれどいつしか、彼女は守られるだけではなく、守ることを知っていたのだ。  剣《けん》をもたない彼女なりの、どこまでも強く|優《やさ》しいやりかたで。  それなのに静蘭は自分のことだけ考えて、羽林軍でヤケ酒をあおっていたのだ。 (……我ながら情けない……) 「めちゃくちゃ信頼《し人∴′い》されて、愛されてるじゃん? L 「……当然だ」 「何が何でもずーっとそばにいて守るって思ってた誰かさんより、よっぽど大人だよなー」  静蘭はぶすっとそっぽを向いたが、何も言わなかった。 「でもお前も、よーやっと三歩くらいは進めたんじゃわーの? ほい返すぜ」  燕青は預かっていた�干将″を投げ渡《わた》した。 「俺も、姫さんだけ守ってるお前より、姫さんの守りたいものも守ってるお前のほうが、背中預けられるしき。今のお前となら、なんも怖《こわ》いもんわーと思うぜ、俺」  馬の手綱を引き、乗る前にチラッと静蘭を見る。 「どする?俺の代わりに姫さんとこ行く?それともここで仕事してるか?」 「……コメッキバッタのくせに本っ当に頭にくるやつだな貴様は。やることやってからだ」  そこまで言われて、行くと言えるわけがない。   その答えに、燕青は嬉しそうに破顔し、馬に乗った。 「大丈夫だって。全部終わったら姫さんがきっと褒めてくれるって−つて、おお?」  投げ返された�干将″を受け止めた燕青は、ちょっと嫌《いや》な顔をした。 「……なんだよ。もーいーだろ。お前なー。俺が剣は|駄目《だめ》だって−」 「お嬢様の傍《そぼ》にいるなら全部終わるまでもってろ。! 意味はわかるな? とっとと行け」   静蘭が|譲《ゆず》らないと知ると、燕青は大きな|溜息《ためいき》をついた。 「……わかったよ。もつだけはもっときゃいいんだろ。でも抜かねーぞ!」   馬を蹴り、燕青の姿が小さくなっていく。   静蘭が天を仰向《あおむ》くと、降るような星晃《ほしぞら》がまたたいていた。  日を閉じ、深く息を吐《■ふ》く。傍にいるのが燕青でなかったら、とっくに飛んでいっている。   傍にいなくても守ることはできるけれど、やっぱり精神的に難しいと、しみじみ思った。 「あー……もうはんっっと誰もこないでよー」   秀麗は両手にシュウランとリオウを抱《⊥り人り》え、そわそわとあちこちを無意味に見た。   燕青があちこちに仕掛けて行ったいくつもの罠は、十中八九、人でも獣でも引っかかる、と自信満々に言っていたが、心配が尽《つ》きないわけがなかった。   そして、子供二人と二人きりになってしまっても、燕青不在にいかに不安でも、天幕にこも  らないで野外できっちりご飯を作るのが秀麗だった。 「これでコトコト脊《▼−》たら終わりだよねーエ 「そうよ。みんなでたくさん食べたら、ちょっと眠《ねむ》って! はああ」  その先を考えて、秀麗はガックリとうなだれた。 「……ごめんね。危ない目には遭《あ》わきないって言ったのに……」 「なんで17あたしがやるって言ったんだもん。それに全然危なくないよ。ほんと。むしろ、今のほうがずっと危ないって。野っ原に女子供三人だもん」 「う、そ、そうよね。大丈夫、何かあったらなんとかするから」  しっかりと秀麗に腕《うで》をつかまれていたリオウは溜息をついていたが、|珍《めずら》しく文句も言わずに−というか、どこか戸惑《レ」まげ】》ったようにつかまれている腕を見ていた。 「ねー秀麗お姉ちゃん、あたしの名前教えて?」 「名前〜」 「漢字のやつ」  秀麗は笑って領《うなず》いた。 「ああ、いいわよ。お母さん、あなたの名前、何て言ってたっ・」 「んーとね、あかくて、伝説の烏なんだって」 「赤くて、伝説の烏……もしかして、こう、かしら」    しゅうら人   に鷲。  地面に枝で書かれた文字に、シュウランは目を輝《かがや》かせた。 「これがあたしだけの名前なんだぁ。……なんか、難しいね。とくにラン……なにこれ」 「すごい名前よ。適当にはつけられないわ。お母さん、きっとすごく考えてつけてくれたのね」 「そーなんだぁ」   シュウランはくるりと丸まり、無言で秀麗の|膝《ひざ》に顔を埋《うず》めた。残してきたお母さんを思い出しているシュウランを、秀麗は優しく撫でた。 「リオウくんほ? どんな漢字っていってたっ⊥ 「……瑠璃《るり》の桜……」  その答えに、秀麗はちょっと|驚《おどろ》いた。ずいぶんはっきり知っている。特に瑠璃、なんて。 「じゃあ、璃桜、かしら」 「リオウは自分の漢字知ってるよねー。『ありがとう』だって教えてくれたもんね」  秀麗は驚いた。……農作業より学問を身につけさせるようなご両親だったのだろうか? (でも、よくよく見れば身ごなしも|綺麗《き れい》だし、言葉に誰《なま》りもないのよね……)  石柴村でも長者の家に生まれたのかもしれない。  秀麗は、間近にあるリオウの目をじっと見た。  闇《やみ》にとけこんでしまいそうな、美しい|漆黒《しっこく》の瞳。《ひとみ》……そう、彼はとても緯度な少年だった。  そして秀麗は、どこかで同じ色の瞳を見たことがあるような気がした。 「……俺の名前じゃないけどな」  リオウはポッリと、|呟《つぶや》いた。  不意に、リオウほ厳しい眼差《まなぎ》しで背後を振《ふ》り返った。石菜村ではなく、虎林城のほうからだ。 「……何か……くる……」  耳を澄《す》ませた秀麗にも、微《かす》かな馬蹄《ばてい》の音が聞こえてきた。ものすごい速さで疾走《しっそう》してくる。  いま、身を守ってくれる人は誰《だれ》もいない。  秀麗の全身に冷や汗が吹《ふ》き出ると同時に、体のほうが先に動いていた。 「天幕に入ってなさい!」  燕青が仕掛《しカ》けてくれた罠《わな》の位置を確かめながら、二人を天幕に放《はう》り込む。夜に、火のないところへ個別に逃《に》げるほうが危険だ。ここは燕青の罠を信用する−。  しかし、単騎《た人さ》で駆《か》けてきた人物を見たときー秀麗は|仰天《ぎょうてん》した。なんでこんなところに。 「龍蓮!?」  しかも、|普通《ふ つう》の格好である。  汗だくで駆けてきた龍蓮は、秀麗を見留めると手綱を引き、馬から飛び降りた。 「ああっ! 待って、そこらへんには色々と罠がー」  龍蓮は何も言わずとも罠の場所を器用に避《よ》けて、秀麗のところへきた。  息が上がっている。|滝《たき》のような汗を、手の甲《こ∴ノ》でぬぐう。  いつもの龍蓮とはまるで様子が違《ちが》う。ふらふら立つ龍蓮の両腕《nノトかううで》を秀麗はつかんだ。 「ちょっと、本当にどうしたの」 「秀麗……」  龍蓮はそのまま、秀麗にもたれかかるように|倒《たお》れ込んだ。 「影月は……?」 「柴山につかまっててーでも明日−明日、迎《むか》えに行くのよ」  龍蓮は短く息を吸った。泣きそうな顔で秀麗の肩《かた》にもたれかかる。 「私は……影月を……」 「え……〜」 「影月を……」  龍蓮はそれ以上言わなかった。ただ、唇《くちげる》を引き結んで、泣くのを必死に堪《こ・り》えていた。          歯髄患歯魯       ー)おう 「繚璃桜殿」  新年の|挨拶《あいさつ》をすませた劉輝は、標家当主に単刀直入にズバリ|誘《さそ》いかけた。 「ちょっとお茶でもいかがだろうか」  標璃桜は黒曜石のような目を軽く陛《みは》ると、銀の髪《かみ》を少し揺《ゆ》らしてゆったりと微笑んだ。 「……先王や兄公子たちとは違《ちが》っていらっしゃる。一陛下、その手にお持ちの�莫邪《ばくや》″を、少々見せていただけますか」  かつて標家の人間が|鍛《きた》え、王家に奉納《ほうのう》した双《つい》の宝剣《ほ∴ノけん》。  劉輝が躊躇《ためら》わずに�莫邪″を差し出すと、受け取った璃桜は|僅《わず》かに眉宇《げう》を寄せた。 「……ずいぶんと、鳴っておりますね。……これは驚いた……駒《こま》だけ動かして、調べなかったのが悪かったか……」 「璃桜殿《どの》」  劉輝は、本題碇入った。 「�邪仙教″に、関与《カんよ》はっ・」  彼は鳴りつづけている�莫邪″を見つめ、小さくーやや|面倒《めんどう》そうに溜息をついた。 「……陛下、本気で一兵も配さなかったその潔《いさぎト人》さを貰って、一つ教えて差し上げましょう。繰家は代々女の一族。異能の血を継《 「一》ぎ、守り残すことができるのは女だけですので。先代の父と私は、少数の例外というわけです」  劉輝は辛抱《しんぼう》強く話を聞いた。 「……そなたが立った、理由は?」 「姉がやたらと私を当主にしたがったのでね。とはいえ、本来当主になるべきだった姉の権限は今も絶大ですが」  彼は髪《かみ》をかきあげ、優美に袖を翻《そでひるがえ》して�莫邪″を劉輝に差し返す。 「そして私も、色々と面倒なので何をしょうが姉のことはたいてい放っておくことにしております。ごくたまに利が一致《いつち》することもありますし。私は基本的に怠惰《たいだ》ですので、たいがい一族に関することか、自分の興味でしか動きません。けれど姉は少々違いますよ。音から、ね」 「そなたは関与していないとフ」 「確かに茶州で手に入れたいものはありましたが、私はほんの少し駒を動かして、ただ待っていただけですよ。必要もないのにわざわざ虎林郡を引っかき回そうと思うほど、やる気のある性格ではありませんので。……姉に横やりを入れられましたね」 「手に入れたいもの〜」 「ええ。一族の存続のために、あったら役に立つもので」  璃桜はそれ以上は言わなかった。 「……では、紅秀麗に接触《せつしよ! 、》したのは?」  標璃桜は鮮《あぎ》やかに笑《え》みを|浮《う》かべ、それには答えずに、|踵《きびす》を返した。 「璃桜殿、やっぱりお茶はダメか?」  璃桜はゆるく編んだ銀髪《ぎんばつ》を揺《ゆ》らして振り返ると、つくづく劉輝を見つめた。 「……本当に、先王や兄君たちと違《ちが》ってらっしゃる。あなたは、標家が過去に何をしたか、もしくはしたかもしれないことを、お考えになったはずだ。それでもお茶に|誘《さそ》いますか?」 「いや、あまり深く考えてない。……ダメならいいんだ」 「……それでは、気が向いたら」初めて、興味深そうに、璃桜は|微笑《ほほえ》み、姿を消した。          儲車重帝魯  影月の、意識がゆっくりと沈《しず》んでくる。  両手足に伽《かせ》をはめられたような陽月は、蛍火《ほたるげ》のようなその小さな輝きを睨《ね》め付けた。  −�−時間がない。  肉体《か・りだ》も、精神《こころ》も、とうに限界をこえていた。  それでも、影月の鋼《はがね》のような心が折れることはなかった。 (出せ……)  刻々と、影月の残りの命が流れ出ていく。かつて掌ほどあった輝きはどんどん小さくなる。  あと、何度、『影月』として目覚められる。 (オレを呼べ)  影月が、死んでいく。  今度こそ、二度と還《かえ》らぬ旅路を辿《たご》っていく。  激しい怒《もカ》りが、陽月の瞳にともった。  最後の最後まで、こんなふうに、死んでいくのか。  そぼ誰かのとばっちりを食って、心身は瑞にボ。ボ。に痛めつけられて、心許した人間の一人も傍にいないままで。これが、お前の最期か。  たった十四年の人生で、いったいお前が何をした。  腐《くさ》るほどいる他のろくでなしのなかで、なぜその我《くじ》を引くのがいつもお前なんだ。 (呼べ)  陽月は万能《ぱんのう》ではない。万能ではないのだ。  誰かを永遠に生かすことなどできはしない。 (呼べば、何もかもぶっちぎってやれる)    か        けいやく  交わした契約。  この世で影月だけが、陽月を呼ぶことができる。  そうしたら、どんな杭《J、し》でも鎖《J、�、1、り》でも、ふりほどいてやるのに。  けれど、影月の微かな意識は、十何度目かの同じ言葉を陽月に告げる。 「……ありがとう……でも、だめだよ陽月……君は呼べない……約束しただろうし十年前に交わした契約。西華《せいか》村をでるときに堂主様と交わした約束。どんなにつらくても、苦しくても。 「この命の欠片《かけ・リ》を使い切ったら、この体は約束通り君にあげるから……h                                                               l、ノだから、この命の尽《一l》きる最後の最後まで、どうか『影目しのままで。  1何よりもその願いこそが、陽月を練《しぶ》る氷の鎖。                                     ∵ 「  《J》 「・…君と影月が、命をくれたんだね』Hを覚ましたあの唐変木《とうへ・九lrく》は、|壁《かべ》に寄りかかっていた自分を見つめ、ふわりと微笑んだ。  さ助けなければ良かったと、思った。  嘲笑《あぎわ・り》うような三日月の下、影月とあんな契約を交わさなければ良かったのだ。 『ありがとうー……陽月』  人間など、大嫌《だいきら》いだ。今も苦も、何一つ変わらない。愚《おろ》かで醜悪《し墜っ云く》で、己《よのれ》のことしか考えぬ。             はる      ヽL一お! 、      ノ、・J         :′1  忘れ得ぬ遥かなる記憶。日も眩むほどの憎しみ。  人間が、何をしたか! あの仕打ちを、那由他《なゆた》の刻《とさ》を経ようとも忘れまいと|誓《ちか》った。  なのに、たった数年�今までの歳月を思えば、寸竜《ナ人ごう》にも満たぬ剃那《せl〕な》で。  ……助けなければよかった。  気まぐれなど、起こさなければよかった。 『ね、泣かないで……陽月』      こ 「】tlヽヽ     .ヽ�ヽ一  ヽ′l一ヽ.ヽノ  _−〇  この自分に、こんな感情を知らしめた、この男も、もう一人の子供も。 『君と影月のために、生きるよ。私の命の最後の一欠片まで、君と影月のものだよ。いつでも、どこにいても、君を想《おも》うよ。陽月……愛してるから、泣かないで帖泣いてなどいるものか。これほど怒《しカ》り狂《′\る》っているのに、この馬《げ尤l》鹿は何をほざく。  こんなぶ|瞬《またた》きよりも惨《はかな》い時のなかで、よくもこんなふざけた|真似《まね》をした。 『忘れないで。いつか私と影月がいなくなっても、君のことを想っているよ。この世が終わるそのときまで、私も影月も、君のことを愛しているからし出会わなければ良かった1その心を読んだかのように、華眞は微笑む。 『暢月……私の大切な、もう一人の子供。あの目、君たちを拾って、本当に、良かった』  すべてをなかったことにできるなら�あの三日月の夜に戻《一冥ご》れるのなら。  その微笑みも、繰《く》り返される『愛してる』も、そのすべてを喪《うし左》う日も。  知ることなどなかったのに。          ト∵瀞.率+窺い圭 「−はい、あとはお塩で終わりですわ」  香鈴はいつものように鍋《なペ》をかき回していた。  急ごしらえの|粗末《そ まつ》な庖厨《だいごころ》からは、いい|匂《にお》いが漂《ただよ》っている。 「へー……やっぱり女だな。おかげでこのところうまいメシが食えて良かったぜ。上の奴《やつ》らはどっかからまともなメシ調達してんのに、俺たち下っ紺《ずす》にゃあ自分でつくれってんだぜ」  香鈴に武器を向けながらも、男がぶつくさ文句を言った。  香鈴は、賄《まかな》いの仕事のときだけ牢《ろう》から出ることができるようになっていた。監禁《かんきん》されて一日目に出てきたあまりにもひどい『ご飯』と、牢の隅《すみ》に置かれた腐った水瓶《みずがめ》に唖然《あぜん》とし、同時にもしかしたらと思い、後宮時代に培《フちか》った話術を発揮し、牢番に賄いの仕事を申し出てみた。  そのときの牢番は、一瞬詰《いrJしゅんつ》まったあと、馬鹿いえと怒鳴《ごな》って行ってしまったが、その後に迎《むか》えがきた。やはり、男たちもここの食事には辟易《へきえき》していたらしい。何せほとんど生なのだ。  香鈴の、何をどうしても抵抗《ていこう》できるはずもない外見も功を奏した。  従順にきちんとご飯だけをつくって、あとは大人しく牢に戻ってくれる少女に、段々と見張りの男たちも|隙《すき》を見せるようになった。とりあえず、水瓶の水を毎日取り換《か》えるという譲歩《じょうは》は引き出すことができた。  香鈴は注意深く自分からはあまり日を開かず、甥たちや、今いる場所を観察した。  皿や箸《はし》の数も思ったより少なく、『士』とやらを含《ーJ/1》めても、おそらくは三十人程度−。  また、見張りをするような格下の男たちは別に教祖や何やらを信じているわけではなく、彼らの言うところの『上の奴ら』の『うまい話』に引っかけられてきたらしい。聞けばあちこちで鼻つまみ者で、村や街にいられなくなったところを拾われてきたようだった。 「……まったくよー、簡単に村人|騙《だま》して金を巻き上げられるっていうからきたのによー」 「わけわかんねぇ。最初はうまーく村人がきて、結構おいしい思いもできたのによ」 「なー。今は村人もどっか行っちまって、誰《だれ》もこねーし。牢じゃ毎日死人も出て、寒いっつーのに毎朝死体捨てるのも|面倒《めんどう》だしさ。なんだって殺しちまわねーんだ?」 「いい加減嫌気《いやけ》がさすよなー」下っ端たちの不満はだいぶ募《つの》っているようだが、かなりいい気になって増長しているところを見ると、どうもそのF上』とやらは別段取り締《し》まるわけでもなく、放置しているらしい。  牢に戻されると、香鈴は看病にいそしんだ。  とはいえ、何の薬もあるわけではない。影月と出会ってから密《ひそ》かに勉強していた薬草の知識を掘l《ま》り起こして、庖厨にあるもので出来る限り精のつくものをつくってあげることくらいだ。  それでも、粥《かゆ》や水を飲ませたり、体を拭《J》いたりと、香鈴は必死で看病した。  そのうちに、無口だった村人たちも香鈴に心を開くようになった。  ぽつぽつと、話もしてくれるようになった。 「……わしらは、あいつらに騙されたんじゃ……」 『発病しないhというから金品をなげうってもきたのに、やがて村で蔓延《まんえん》している奇病《きぴよう》と同じ|症状《しょうじょう》の者が出始めた。その時点で、ますます�邪仙教″にのめり込む者もいたが、発症《ほつしょう》した者と騙されたと気づいて|抗議《こうぎ 》した者は、こうしてことごとく牢に入れられた。  香鈴は自分が作ってきたごほんをよそいながら懸命《けんめい》に励《はげ》ました。 「|大丈夫《だいじょうぶ》ですわ。絶対に助けは参りますわ。ですから、きちんと召《め》し上がってくださいませ。  それと、いざというとき歩けるように、動けるかたはなるべく動いてくださいませね」  男たちが毎朝きて運んでいく死体を、香鈴は毎日、にじむ涙《な,�.バ′.》をぬぐって見送った。  閉じこめていた、|優《やさ》しくて悲しい記憶が否応《いやおう》なく蘇《よみがえ》る。 『�君の望むものをあげよう』  そういって、優しい手が差し伸《の》べられなければ、香鈴もまた、独りぽっちで死ぬはずだった。 (鴛洵さま)  香鈴はお嬢様《ドしよ∴ノ七』lま——》ではない。あの王位争いのときに一人で飢《∴ノ》えて死ぬはずだった、どこの誰ともしれぬみすぼらしい子供。|倒《たお》れたのが茶鴛洵の門前でなければ、いまここに、香鈴はいない。  今の香鈴があるのは、たくさんの人が自分に手を差し伸べてくれたからだ。 (泣かないの。もう少し……もう少しですわ)  あのときのように、絶望はない。助けがきてくれることを信じられるから。  だからそれまで、今度は、香鈴が手を差し伸べる番だった。  いくつか、抜《ぬ》け穴《あな》らしきものは見つけたけれど、小柄《こが・り》な香鈴にも通り抜けられそうにないほど小さかった。しかもどこに通じているかもわからない。それでも、あちこち観察した。  そして長年この葉山で石をとっていたという初老の男に、いつものように話を聞き始める。  まだ、影月がどこにいるかは、わからない。 「おじさま、では今日は、ここの四叉路《さろ》の先に何があるのか教えてくださいませ」 「‥::う・トつLJ.  助かるために必死な香鈴の姿に、徐々《じよ.じょ》にとらわれの村人たちの目にも光が灯《しし一b》りはじめる。  そして、ある晩に、光は差す。 「あ、ここねー。あんまり捜《さが》さなくてよかった。あのー。香鈴さんてひと、いますかー?」  疲《つか》れ切っていても、いつも気を張りつめていた香鈴はすぐに飛び起きた。  知らない少女の声。かなり、近くから聞こえた。けれど、牢の外には誰もいない。 「あ、上だよ1、上」  香鈴は|壁際《かべぎわ》を見上げ、息を呑《lり》んだ。−真っ暗で、全然気づかなかった!。  大井《てん‥しょう》近くの暗がりに、小さな横穴があって、そこから少女の顔がのぞいていたのだl。 「秀麗お姉ちゃんからの、お話をもってきましたー」  その名前に、香鈴は泣きそうになった。          ∵レ裏革率も  ——−影月には、不可思議な術のことなどわからない。  けれど、陽月を捕《と》らえたがっている相手が自分の周りに描《えが》いた紋様《もんよ∴ノ》。一刻も早く�干夜″が影月に消えてほしいと思っていること。それを踏まえれば、今、この紋様の中で『陽月』を出した瞬間、《しゅんかん》陽月は『捕らえられる』のではないかと推測するのは容易だった。 (……陽月《きみ》を、出すわけにはいかない……)  内から、響《ひげ》いてくる声は、徐々に大きくなるけれど。  自分のために|怒《おこ》ってくれるその声は、……嬉《うれ》しかったけれど。 (……出したら、君が……つかまる……)  影月の命なら、影月の好きにできる。けれど、自分のせいで陽月まで危険にさらすわけにはいかなかった。  陽月がいなかったら、いま、影月はここにはいない。  何もかも喪《・りしな》ったまま、愛した人と過ごす幸せも知らぬままで。  いちばん最初に、僕に手を差し伸べてくれたのは誰か、君はわかっているのだろうか。 (君の、おかげなんだよ、陽月……)  尽《√一》きるはずだった命に、猶予《時うよ》をくれた。  四歳のあのときからの十年間−すべての幸せを、陽月はくれた。  何も喪ってなどいない。与《あた》えられてばかりの十年だった。  愛しても次々と喪いつづけたことを、君は 「とことん運が悪い』と言うけれど。(誰かを愛して、愛されたことだけで、僕には、|奇跡《き せき》みたいな幸せだったんだ……)  誰にも必要とされなかった、生まれてからの四年間。  あんまりにも何もなかったから、死さえ希望にはなりえなかった。生と死を秤《はかり》にかけて、どちらが幸せかと思うことすら無意味だった。だって、『生きていても良いことがない』と絶望するくらいの 「良いこと』さえ、僕は知らなかった。  それでも、死ぬ|間際《ま ぎわ》、|強烈《きょうれつ》に生きたいと思ったのはぼんやりと覚えてる。なぜなのか、君はいつかーずっとずっと遠い苦に、不思議に思っていたことがあったね。  その理由が、僕にも今ならわかる気がする。 (僕は……きっと、誰かと手を繋《つな》ぎたかったんだ)  手を繋ぐことの暖かささえ、知らなかった。伸ばしてもつかんでくれる手があることを。  最期《さいご》に見たのは、嘲笑《あぎわら》うような三日月と、ほうほうと暗《な》く集《ふくろう》の声。最後まで独りぽっち。  どうして自分が泣いているのかもわからなくて、何かを願って無意識に伸ばした手を、初めて、堂主様がつかんでくれたとき。願った『何かLにーようやく気づいた。 (あのとき僕は……もっと生きたいと思ったんだ)   この暖かさを、もう一度。もう一度だけでいいから−感じたいと。   それは堂主様だけじゃない。  僕が伸ばした手を、あのときつかみ返してくれたのはもう一人。 (陽月……) 『生きたいか〜』  僕の『言葉』に、生まれて初めて、君が応《こた》えてくれた。   あるはずのなかった十年の月日。  知るはずのなかったたくさんの『幸せ�奇跡のようなこの十年を、君がくれた。 (僕は……本当に本当に、幸せだった)  何度死に別れても、つらくて悲しくてやるせない想いを何度繰《ノ.ヽ》り返しても、それでも愛した人たちと出会わなければ良かったなんて死んでも思わない。  愛することも愛されることも知らなかった子供。.何もつかめなかった一人きりの子供。  そう日日−何も喪《うしな》ってなどいない。突《つ》き刺《曳」》すような胸の痛みさえ、影月が手に入れたもの。  この掌《ての!?l・り》から、こぼれおちたものなんて、何一つない。  すべて、影月のうちにある。何もかも心にしまって最後までもっていく。 (僕は、何一つ、なくしてなんかない……陽月……僕は、君に−)  影月は言いかけた言葉をのみこむ。  ……その言葉は、最後までとっておかなくては。  陽月の声が、遠くで聞こえる。……|駄目《だめ》だって……君を呼ぶわけにはいかない……。 (大丈夫……まだ、生きてる……まだ消えてない……)  耳に届いた声のおかげで、影月はぼんやりと目を開けた。  ……また、意識を失っていたらしい。 (危ない……なんか、すご一く遺言ぽいことをつらつら考えてた気がする……)  ぐらぐらと|目眩《め まい》がした。……さすがに血が足りないようだ。考えてみれば、死なないからっ  てご飯ももらってないのだ。省きすぎだあの野郎《やろう》。意識すると猛烈《もうれつ》にお腹《なか》が減ってきた。 (生きてるか死んでるかはっきりしてほしいときって、たまにあるよね、この体……)  お腹が減ると無意味に情けなくなるから、気づかなければ良かったと影月は思った。               ,い                                                                        .」  頭を振《一》る。最後まで 「影月』のままで、ここから逃げて、つかまってる村人を助けて、お薬処方して、励まして、堂主様の体を取り戻《一じど》して、あの男にガツソと物申して……。影月は改めて考えて沈黙《ら人もく》した。 (……な、なんか……我ながら、やることいっぱいありすぎるな……)  ふっと、視界の向こうに香鈴の顔が浮《∴ノ》かんだ。青ざめながら、ポロポロと泣いている。 (あー……最後に、香鈴さんの笑い顔、見たかったな……)  夢でもいいから笑ってくれないかなと思って、影月は久々にへらへらっと笑ってみた。  すると、ますます泣かせてしまった。顔色はもはや蟻《ろう》のように白い。……ダメだ。 (……僕って、本当に好きな女の子にロクなことできないんだな……)   がっくりした。  次の瞬間、ふわりと、頬《ほお》に風を感じた。  |膝《ひざ》をつく影月の頭を抱《カわ》えるように、小さな体が覆《おお》い被《かバ》さってきた。熱い雫が《しずノ、》頬にいくつも当たって、くだける。鴫咽《おえつ》と、熱い|吐息《と いき》が、影月の額にかかり、|前髪《まえがみ》を揺《ゆ》らした。  節くれが目立ちはじめた小さな指が、震《ふる》えながら影月の頬をなでる。 「……こん…こんな……えい……影月さま……!」  絞《しぼ》りだすような悲痛な声に、影月の|脳裏《のうり 》は覚醒《かくせい》した。  まさか本物の−。 「……香鈴さん……!?」   −ついに見つけたとき、その場で気絶しないのが不思議だった。  秀麗からの指示を少女から受けたあと、香鈴は最後に思い切ることにした。朝までに、影月の居場所を見つけようと思った。見回りにきた牢番《ろうばん》に、一目一回とりかえる水瓶《みずがめ》の水が、もうないので汲《く》ませて欲しいと頼《たの》み込み、あとは迷った振りをして、牢の村人に教えてもらった道見つか。かけて、たはたま飛《を思い出し、隠《かく》れながら進んだ。》び。んだ先に、影月がい膏び冊馳ど�封。  いくすじ両手に直接打たれた杭。衣服はすっかり黒ずんでいる。唇の端から顎にかけて、幾筋も残る血の跡《あと》。  涙が《なみだ》したたった。唇がわなないて、何も声が出なかった。ただ何度も首を横にふった。  死んでしまった、と思った。  死んでしまった。間に合わなかった。こんなにーこんなに近くにいたのに。  そのとき、影月の頭がゆっくりと動いて、香鈴に笑いかけた。  まぎれもない『影月』のままで。  鴇う、理屈《りくつ》も何も関係なかった。理性も何もかも吹《ふ》っ飛んだ。  駆《か》け寄って、垂れた頭を抱《だ》きしめて、泣いた。  頬にふれて、その温かさを知れば、ますます涙があふれた。 (やめて)   生きてるのに。生きてるのに。  誰《だれ》がこんなことをしたの。こんなことをできるの。こんな−こんなひどいことを。 「……香鈴さん……!?」  影月の声が耳に届く。ずっと聞きたかった声−だったが。 「どうして、ここに……!?」  香鈴は現実に引き戻された。びしっとこめかみに青筋が浮く。……どうして? 「ビーどうして、とお訊《き》きになるの!?」  まだぼたぼたと涙をこぼしながら、香鈴は影月を間近で睨《ね》めつけた。 「なんですの、こんな、こんなところで、おマヌケにもおっかまりになって!」 「え、あ、す、すいません。じゃなくて!」 「追いかけてきたわけではありませんのよ! ひっぱたいて�|怒《おこ》って……でも」  香鈴の指が影月の口の端に残る血の跡をなぞる。  香鈴は涙を一杯《いっぱい》にためて、影月の首にかじりついた。こんな姿で、ひっぱたけるわけがない。 「……あ、あなたは、ここまできても、わたくしのしたいことをさせてくれませんのね……!」 「……香鈴さん……」  香鈴は必死で言わなくてはならないことを頭の中からさぐりだした。 「もうすこしで……」  香鈴は震えながら、明日起こることを耳打ちした。  影月はすべてを聞き終えると、唇を引き結んだ。 「……わかりました。では、すぐに帰ってください」 「助けます」  香鈴は深々と影月の掌に突き刺さっている杭を見た。まるで力の入らない手で必死で動かそうとするが、ぴくりともしない。  影月は短く息を吸った。 「いいから、帰ってください。僕は|大丈夫《だいじょうぶ》ですから」 「ど、どこがですの!?これ……これを、なんとか」 「帰るんです! 香鈴さん」  厳しい声に顔を上げれば、影月の突き刺すような目があった。  �決して|譲《ゆず》らない睦。《ひとみ》本当に大切なことは、決して譲りも曲げもしない。 「帰るんです。明日がくる前に、気づかれたらどうするんですか。秀麗さんたちがつかまっている村の人たちを助けにこようとする、すべてが無駄《もだ》になる。そうでしょう」  香鈴の心がわなないた。……どうしてこの人は……。  どうして、他《ほか》の誰にも|優《やさ》しいくせに、自分にだけはこんなひどいことを言うのか。  そんなこと……そんなことわかっている。けれどどうしてできる。 「嫌《いや》です!」  こんな、ぼろぼろに傷ついたあなたを置いて。  もうすぐ、《つ》尽きるという『影月《あキト」》』を置いて、どこに行けという。  香鈴は影月の頭をかき抱《いだ》いた。  もう、二度と会えないかもしれないと思った。呼吸一つぶんの時が過ぎるのさえ、怖《こわ》くて。 (見つけたのに)  追いかけて、追いかけて、ようやく、見つけたのに。  もういや。 「もう、最後まで、おそばを離《はな》れません……!」  悲鳴のような言葉と想《おも》いに、影日の目が揺れる。  ぐっと、その日を閉じる。きつく歯を食いしばった。      ヽ..リ‥  叫んだ。 「1−帰れ!」  本気の|怒声《ど せい》に、香鈴の小さな肩《かた》がびくりと震えた。けれど、腕《うで》を離しほしなかった。 「……い、いやです……!」 「帰るんです。あなたほ、牢の方々に、助けると約束してきたんでしょう。彼らや秀麗さんたちと引き換《か》えにしてまで、あなたは僕とただ《ヽヽ》ここにいることを選んでくれるわけですか。ここに最糟でいてくだきっても、何の意味もありません。むしろ、あなたもみんなも、……僕も、全員全滅です。明日まで待てば、すべてうまくいくかもしれないのに。僕は、……僕は、生きられるかもしれないのに、死を選ぼうとするひとは嫌《毒J・り》いです」                                                                                                   、ノ最後のひと言は、何よりも香鈴の胸を《ず》衝いた。  欠けてゆく命を抱《カれり》えて、他の誰かを助けるために虎林郡へ飛んだ人。  誰よりも 「生きる』ことを大切に思っている人。そのひとの、前でー。影月の声音《二わね》が、やわらかくなった。 「……僕と秀麗さんは、ここで殿《し人がnリ》をつとめものが役目です。逃げるわけにはいかない。だから、あなたには僕の背を預けます。僕の大切なものを、あなたがかわりに守ってください」香鈴の黒目がちの大きな瞳から音もなく涙が伝う。  �大切な人から、大切なものを託《たlく》されて。 「……どこまで、あなたは……ひどい、男なんですの」 「明日、僕は自力でなんとかします。助けにこないでくださいね。皆《みな》さんと|一緒《いっしょ》に避難《ひなん》……」 「うぬぼれないで。もうあなたのお話なんか聞きませんわ」 「あれれ……」 「……一つだけ……お約束して一香鈴が一度瞬《まばた》けば、いくつもの雫がばたばたと影月の衣服をぬらす。 「絶対無事でいると……消えないと……約束して……」  影月の睫毛《まつげ》が伏《、》せられる。削《けず》られていく欠片《かけ・り》のような残りの命。  流れ出ていく砂の命。陽月の声。自分の、残りの時間ほ。 「約束、して……!」  影月は心の中で|溜息《ためいき》をついた。  いつだって、自分は香鈴《この!?と》を泣かせてしまう。  そうして、影月はその言葉を日にした。 「……約束します」  影月は|微笑《ほほえ》んだ。  その笑《え》みに引き寄せられるように、香鈴の顔が近づく。  影月が首を傾け《かたむ》、最後の|距離《きょり 》を縮めた。 「約束しますから、どうか泣かないで……」  溜息のような口づけを、一度だけ交《人り》わして。 「……さあ、行ってください」  影月は別れの言葉を口にした。  その日の朝、いつものようにで《ヽ》き《ヽ》た《ヽ》て《ヽ》の《ヽ》死《ヽ》体《ヽ》を運びに男が牢《ろう》にやってきた。  耳障《みみぎわ》りな低いうめき声が今朝《けさ》もそこここから聞こえてくる。  そのなかで、ぴくりともせずに横たわる人数を数え、男は嫌そうに溜息をついた。 「……今日は多いな。でかい荷車をもってくるか」  香鈴は深々と頭を下げた。 「よろしくお願いします……」 「今日も美味《う童》いメシ頼《たの》むぜ」  そして早朝の荷車は、ひそやかに、山の外と内を何度も何度も往復した。  荷車の行き来がやんだ頃《ころ》には朝餉《あさげ》の支度《した′〜》の時刻になり、別の男が香鈴を迎《むか》えにやってきた。 「おい、メシつくる時間だぜ。出ろ。……つたく、あいつどこでサボってんだ」  ぶつぶつと仲間の|怠慢《たいまん》を愚痴《くち》りながら、男は|鍵《かぎ》を開けた。薄暗《うすぐ・り》く汚《きたな》い牢に、いつもながらみすぼらしい村人たちが岬《うめ》きながらごろごろと無様に横たわっているのを確かめる。  そして香鈴は今日もまた、朝餉をつくりに大人しく牢を出たのだった。          ・翁・令色 「……おーい姫さーん。時間だぞー。迎えにきたぞ——。起きろー」 「秀麗お姉ちゃーん。起きてよー。あたし、ちゃんとやったよー」 「うー……もうちょっと……」  ぴたびたと頬《ほお》を叩《たた》かれ、秀麗は逃《に》げるようにころりと転がる。−次の瞬間、跳《しゅんかんは》ね起きた。 「−|嘘《うそ》! 燕青!?なになになにいま何時!?朝!?午《ひる》!?夜!?」  燕青は腹を抱《カカ》えて爆笑《ぼくしょう》した。 「朝。いやーさすが姫さん。この決戦の目に|爆睡《ばくすい》できるなんてすっげぇ大物。尊敬」 「いやーll;つつ!!」  秀麗はハッとして見回した。寝《ね》ていたはずの天幕はもう片付けられている。 「龍蓮は!?」 「龍蓮は俺と入れ違《ちが》いに出てったぜ。『先に行く』ってさ。やー、まさかくるとは思わなかったよなぁ。おかげで姫さんの護衛頼めて俺も色々動けたけど。……ところでリオウは?」 「……え?」  秀麗は目を|瞬《またた》いた。……香鈴のところへ行ったのはシュウランだけで、リオウは龍蓮と一緒にずっと秀庫の傍《そぼ》にいた、はずだ。けれど今はどこにも姿がない−。 「嘘!?ちょっと、どこに�」  けれど、シュウランだけは別に|驚《おどろ》いてはいなかった。 「あー。じゃ、もしかしてリオウ、やることっていうの、終わったのかなー」 「え?」 「リオウ、石集村の子じゃないもん。病のあと、いつのまにか村にきたんだよ。頭いいし、色々さぼってたけど一応看病の手伝いとかしてくれたから、一緒にいたの。みんなコソラソしてたし、大人の中には村の子と思ってる人もいたみたいだけど。なんか、時間がきたら出てくって言ってたから。もしかしたらその時がきたのかも」  燕青と秀麗ほ、ゆっくりと陛目《リJすフ.もく》した。          魯翁患歯ゅ  秀麗は燕青と馬に揺《ゆ》られながら、石柴村をつっきり、柴山に向かった。  シュウランは村に戻《一じり」》ってきた人々や葉医師に預けてきてある。  初めて目にする石柴村は、確かに村というより街に近い広さだった。……秀麗は通り抜《ぬ》けるごとに、心がぎゅっと引き絞《しぼ》られるような心地《ここち》になった。  1閑々《かんかん》とした村。多くの人が、病で亡《な》くなってしまった。  けれど、助けられる人もいたはずだった。�邪仙教″が|妙《みょう》なお告げをして回らなければ、今《いま》  頃《ごろ》、虎林城で手当を受けて�元気になっていた人もきっといたのに。  モノのように、毎朝死体を捨てて。  ただ、秀麗と影月を呼び寄せるためだけに彼らはー。 (ふざけないで)  怒《�,・乃》りがふつふつとつきあげる。  どこの誰《だれ》だろうが、絶対に許さない。  ! 今日で、全部終わりにしてみせる。  二…‥んー?なんだありゃl1−燕青の声に、秀麗は我に返った。ポッカリ空いた坑道《こうごう》の入り口が見える。その周辺に、白装《しろしlよう》束《ぞ′\》の男たちが数人転がっていた。 「……燕青、何かしたのフ」 「するわけねーだろ。今日は念のため文官の振りして梶《こん》も置いてきたのにさ」  燕青は馬から降りると、男たちの打撲痕《だばノ、こ′れ》を簡単に調べ一こめかみをもんだ。                                                                     �こ、ノ 「……あー。こりゃ、多分、龍蓮|坊《ぼっ》ちゃんの笛でやられたんだなー……」 「は!?堂々と真正面から乗り込んだわけ!?」 「いつでもどこでも正々堂々だなー。らしいといえばらしい。いーんじゃん。龍蓮なら絶対邪《じや》魔《ま》はしないだろうし。手間が省けてくれたし。じゃ、行くか姫さん」  振り返った燕青に、秀魔は決然と領《うなで》いた。          l! 一癖ハ▼押掛   −少し前まで丙太守の郡武官をしていた朱温は、|爆発《ばくはつ》寸前まで鬱憤《うつふ人》がたまっていた。 (全部うまいこといくっていうからきたのによ)  郡武官の稼《かせ》ぎなんて、ちょっと|賭博《と ばく》ですったらおしまいだ。もともと近いうちに博打《ぱ! 、ち》で|一攫《いっかく》千金ぶち当てるつもりだった。自信もある。ただ、少しばかり運が回ってこなくて、借金で首が回らなくなったときに、妙な病が起こって石集村に駆《か》り出されたのだ。  そこで、ここの奴《やlつ》らに金を渡《わた》されて、声をかけられた。  もともと朱温は女州牧など|冗談《じょうだん》じゃなかった。女の下でなんかみっともなくて働けるか。女は男の言うなりになってりゃいいのだ。〓ばっかまわってきゃんきゃん犬みたいに吠《エl》えて、弱いくせに自分に逆らう生意気な女が、朱温は何より嫌《さ.り》いだった。実際朱温は、今でもあの奇病《きげよ∴ノ》は女が州牧になったから起こったんだと本気で信じている。  楽して金が儲《一り∴ノ》かるとか言いやがったここの奴らも、気前が良かったのは最初だけだ。俺はちゃんとやることやったってのに、与《あた》えられたのはくそまずいメシの毎日。 (けっ、こんなとこ、もうトンズラするぜ)  行きがけの駄賃《だちん》に、ここの偉《え・り》そうな教祖どもがためこんでるお宝を失敬して何が悪い。  朱温ほ、村人からの貢《みつ》ぎ物を置いてある場所以上に、あの″教祖″が厳重に警戒《けいかい》させている  ところを知っていた。絶対すごい宝があるに違いない。  最後の四叉路《さろ》−中央を行けばこの坑道で一番広い採掘《さいくつ》場にたどり着く。右に行けば、両手を直接杭で礫《・\��りつ〓》にされてる妙なガキの監禁《か人\∵八》場所。そして最後−左の、細い道。ここだ。  いつもはこの道の傍には必ず�教祖″を固める男の誰かがさりげなくいたが、今日はなぜか誰もいなかった。朱温は何も考えることなくその道を進んだ。細く長い道を進んでいく。  思った通り、何も使っていないはずの道の突《つ》き当たりに、蟻燭《ろうそ′1》が揺れていた。  舌なめーずりをしてその奥の窟《いわや》に入りさ朱温はぎょっと声を上げた。 「……な、なんだコイツ」  そこには、千五、六歳ほどの見かけない少年が一人、横たわっていた。             〆・蔑敏l鉱郡・や  《肯一lま》 「女州牧がくるって?」  �千夜″は、標家からついてきた数少ない男に確認《か・\にん》をとった。 「仕掛《し有り》けはちゃんとしてあるんだろ?」 「はい。中央に、見えぬように円陣《えんじん》を記してあります」 「わかった。そこにその女を誘《おげ》き寄せれば僕の仕事は終わりってわけだ。じゃあさ、本当にもういいだろ? いい加減元の体に戻せよ」  採掘場に向かう最後の四叉路《トふ人さろ》で、�千夜″ほ元の自分の体を安置してある左の道を恨《、つこー.》めしそうに見つめた。 「この体はあの杜影日用に乗っ取ったんだしき。女相手には必要ないだろ」  異能の一族に生まれながら術の使えぬ『無能hな�千夜″は、ふっと立ち止まり、右の——杜影月の監禁場所に通じる坑道を見た。  たいして歳《レしし》が違わないのに、 「お母様』に必要とされている少年。いや、本当に必要とされているのは、『杜影月』のなかにいる『陽月』だけれど。  ……そう『陽月』がいれば、必要とされる。  ″千夜″は、右の坑道に目をやったままで、隣《となり》の男にポッリと訊《き》いた。 「……あのさぁ、ぼくの意識、杜影月の体に移せたりできない?」 「……は?」 「どうせすぐに『杜影月』のほうは死ぬんだろ? そのあとさ、ぼくのこの意識、あの体に移せるんじゃないの。術にしたら今とたいして変わらないだろ? 今だって死体に意識だけ入れて動かしてるんだし。『陽月Lは封《ふう》じたままにすれば邪魔もしないだろうし」 (あの体なら)  �あの体に入れれば、もう『無能Lではなくなる。必要とされる存在になれる。 「反抗《はんこ∴ノ》的っていう『陽月』だけ残しておくより、ぼくを楔《くさげ》にしたはうが扱《あつか》いやすいだろ?」  今度こそ、『お母様』は、ぼくを、見てくれる。それが叶《かな》うなら−。 「どう? それなら僕、元の体捨てても全然構わないよ。ま、顔は僕のほうがイイけどね』白装束の勇一は少し口をつぐみ1考え込むように睫毛《まlrJげ》をおろした。 「……わかりました。考えてみましょう」 「ん、よろしく。じゃ、まだてのおっちゃんの体でいいや。その女、待ちに行くか」  �千夜″ほ内心の安堵《あんビ》を押し隠《カ/、》し、軽い足取りで中央の道を進んだ。                         �   ご∵午  《.1》  影月の額から、|滝《たき》のような|汗《あせ》が滴《したた》り落ちる。香鈴と別れてから、煤の杭を抜こうと腐心《バし人》して、もうどのくらい経《た》ったの示もわからない。 (……まずい……いま……いま何時?)  自力で何とかするなどと偉そうに言ってしまったが、杭はまるで抜けそうになかった。  最後の最後で、利用されるわけにはいかない。なんとしても、あの男たちが引っ立てにくるまえにここから抜け出さなくてはならなかった。  杭から手を抜こうと再び地道《じみち》に激痛に耐《た》え——一休みをかねてガックリ肩《かた》を落とした。  人生、そうそううまい話はない。 (……僕って英雄詔《えいゆうた人》の主人公っていうより、断然|平凡《へいぼん》な脇役顔《わきやJ、がお》だからなぁ……)  影月だって、たまには投げやりになったり、ヤケになったりすることもある。  堂主様みたいになろうと精一《一−..�ヽ.ドl▼一》杯《‘》《Ft》日々努力してきたが、はっきりいって修行中の身なのだ。  特に、こんなに色々と一人で切羽詰《せつはつ》まっているときなんかは思わず本音も出る。  そして、ついに影月は禁断のひと言を|呟《つぶや》いてしまった。 「……あーもうくそー……誰か助けにきてくれないかなー……」  頭が、またしても牒膜《もうろう》とし始める。夢と現《うつつ》の境を彷捏《さまよ》い始める。  ……やがて、誰かのしなやかな手が、影月の輪郭《りんか・1》をなぞるように撫《な》でた。  視界が、チカチカして、影月は、これは夢だろうと思った。  猫《わ二》のようなH。緩《ゆる》やかに流れ落ちる巻き毛。猫科の獣《〓もの》のような優艶《ゆうえん》さ。やたらと|綺麗《き れい》な顔。  いちばん最初に�千夜″と名乗った男。  そして、影月の人生で生まれて初めて、これ以上ないほど怒髪《どはつ》天をつかせてくれた男。  夢でも何でも、影月はこれは天がくれた最後の機会かもしれないと思った。 『……僕はですねぇ、あなたに会ったら、ガツソと言いたいことがあったんですよ、朔洵さん』  不思議そうに、相手の長い睫毛がゆっくりと|瞬《またた》いた。  影月は|怒《おこ》っていた。本当に怒っていた。  夢でもいいから、一発ビシッと言わねば気が済まないほどに、彼に対しては怒っていた。  正論というより、八つ当たりのようなものだったから、夢というのはちょうどよかった。  F……いいですか、僕は別に、あなたの適当で自堕落《じだらく》で我値遊蕩《わがままゆうとう》生活の人生にケチをつけるつもりはありません。あなたの人生です。あなたの好きにすればいいことです』  金も|家柄《いえがら》も才能も容姿も不自由してなくて、ひとつかみの粟に汲々《あわきゅうきゅう》として、家族で|奪《うば》い合って殺し合うこともない。目の前にほあらゆる道が開けて。影月とは正反対の羨《うらや》ましい人生だ。 『ぬくぬくと何不自由なく育って、すべてが手に入って。鍬《くわ》もって畑耕したこともないくせに、自分は何もかも知ってるって顔して、勝手に全部つまらないと決めつけて、地道に一生懸命《けんめい》生きてた他の人の命を玩具《ぶもちや》にして楽しんで、飽《あ》きたら捨てて。心配してくれた弟さんや鴛洵さんにも全然気づかないままで好き放題して。引っかき回すだけ引っかき回して、何一つ責任とる気もない。でも別にいいんです。それがあなたがいいと思って選んだ人生なんでしょう。実際、心の中ではもうはんっとどうしようもない男だとほ思ってますけれど、それが怒ってる理由じゃありませんh目の前の男は、|黙《だま》ったまま礫の影月を見ていた。……やはり、夢らしい。  影月は|僅《わず》かに顔を仰向《あおむ》け、深く息を吸った。 『……僕が怒っているのはですねぇ、あなたが、自殺を選んだからです』  仰向いたままで、ちょうど背の高い彼と目線があう。 『あなたは、自分が捨てたものがなんなのか、本当にわかっていますか? あなたが|途中《とちゅう》で蹟《ため》躇《−り》いなく切り捨てたその命、どんなに欲しいと思ってる人がいたか。堂主様や、西華村で死んだみんなや、僕が−どんなに、どんなにそれを欲しかったかし  影月は目を閉じた。短くて、長い! 愛する人の命がたくさん詰《つ》まった 「年を思う。この十年、あっというまに指の|隙間《すきま 》から砂のようにこぼれていった大切な人たち。  喪わ《うしな》れた命。死んでしまった人。愛した人たちから否応《いやおう》なくこぼれていく命を、繋《つな》ぎとめられるなら何と引き替《か》えにしても構わないと、どれほど願ったことだろう。  泣いて、|叫《さけ》んで、|壁《かべ》に頭を打ち付けて白でもどうにもならない命の刻限にまた泣いて。  いつ死ぬかしれぬ自分には、明日が本当にくるのかさえ、わからないままで。  当然のように 「明R』を信じられる人は、それが幸せだということにも気づかない。(僕は、愛する人に『明日の約束』をしてあげることさえ、できなかった)  誰《だれ》もが、簡単に口にできるその幸せな言葉は、影月の掌《てのけ・り》だけすり抜《ぬ》けていった。  泣きながら抱《だ》きしめてくれた香鈴の姿が思い浮《う》かぶ。  香鈴には、わかるまい。追いかけてきてくれたことを知って、どんなに自分が嬉《∴ノわ》しかったか。  求められているということ。助かってほしい、生きてほしいと、思ってくれたこと。  ! 礫にされていなかったら、あのまま、さらって、どこか、遠くへ行ってしまいたかった。  どんなに、どんなに愛する人の幸せを願っても、本当は−。 (|一緒《いっしょ》に)  この先につづくたくさんの 「明日Lを、一緒に過ごしたいと、思わないわけがない。(でも、僕にはもう、時間がない)  愛する人と過ごす時間。約束を果たす時間。もう何も残ってはいない。  陽月にもどうにもならないところまできていることも、知っている。  もうすぐ−‥『影月hはカラッポになる。  死ぬ|覚悟《かくご 》で、きた。あるはずのなかった幻《まぼろし》の十年。|充分《じゅうぶん》すぎるほど幸せな日を過ごした。だから最後まで、自分らしく、悔《く》いのないようにーと。でも、本当は。  本当の、心は。  H僕は……生きたかった。生きたかった……生きたかった。もっと……もっと、生きたいと、いつだって思ってた。ほんの少しでもいいから長く−もう、幾《.1.、》ばくもないとわかっている今でさえ、叶うなら、もっと−もっと一緒に。陽月と、香鈴さんと、秀麗さんたちと、みんなと、一緒に、これからもー僕は�……』  生きたい。生きたい。愛する人たちと、もっと一緒に−。  遥《はる》かなる苦から、影月の望みは、たったひとつ。  何度命をもらっても、それでも影月は死に際《ぎわ》に願うだろう。  もっと、生きたい、と。  どんなにつらい人生でも、自分から死のうなどと、決して思いはしない。 『明日』にほ、すべての宝物が詰まってる。  なのに、このひとは。 『僕が、絶対に手に入れることができない、『未来』というものを丸ごと、あなたほいとも簡単に捨てました。僕が、僕がどんなに情けなくて、情けなくて、目の前が真っ赤になるほど怒  って−そして、あなたが捨てた命を、残りの時を、どんなに、欲しいと思った、ことか……』  苦から、四歳の頃《ころ》から、本当に変わっていない。  この世でいちばん、生き汚《ぎたな》いのは、|間違《ま ちが》いなく自分だ。 『だから、僕はあなたにカンカンに怒ってるんです。それと、もう一つ』  深く沈《しず》んだ目で見つめてくる彼を見上げる。この人は、わかっているのだろうか?『……あなたは、あのあと、秀麗さんがどんなにどんなに悲しんで、苦しんで、泣いて−一生癒《.ヽ》えない傷を心に負ったか、わかってるんですか? ええ、あなたを、秀贋さんは一生忘れないでしょう。あなたを殺してしまったと、思い出すときは|後悔《こうかい》と悲しみで泣きながら自分を責めてー今までみたいに、これからも、死ぬまでずっと。それが望みだったんですよね?だから秀麗さんに殺されたかったんですよね? 満足ですか? でも、僕は許せません。僕のとても大切な友人を、一生苦しめて、泣かせるあなたを、僕は世界でいちばん嫌《き・り》いです』自分だけが満足な死に方をして、何がかっこいいものか。ちゃんちゃらおかしい。  誰も彼に言わなかったことを、影月だけが|容赦《ようしゃ》なく真っ向から突《つ》きつけた。それは、誰よりもまっすぐ、何にも惑《よご》わされず命と秀麗を大切に想っている影月にしか言えないことだった。 『だから、ビシッと言わせてもらいます。好きな女の人を泣かせる男なんて最低ですよ。そ、そりゃ僕だって泣かせっぱなしですけど、僕だって時間があったら頑張《がんば》ったんです。同じ最低男でも僕はまだ上《じょう》で、あなたは下《げ》の下です、下の下!』カッカと怒りすぎたせいか、夢なのに動惇《ごうき》息切れ|目眩《め まい》がしてきた。 『……秀麗さんの心の傷を、本当に癒《も,や》せるのは、あなたしかいません。でも、あのときのあなたのままじゃ、全っ然ダメダメです。秀麗さんの夢に出てくるにしろ、もっとこう、色々大人になってからにしてください。自分のことだけじゃなくて、今度こそ秀麗さんのことを考えて……はあ、僕に、時間があったら、あなたとお茶でもしてゆっくりビシッと……Lくらくらと頭に霞が《かすみ》かかる。  もう一度、しなやかな手が頬《ほお》にそっと触れたかと思うと、頭をよしよしと撫でられた。まるで目の前の不思議な小動物を気に入って、愛撫《あいぷ》するような感じである。  ——1……あ、あのですねぇ……僕はリスやコマネズミじやし影月は今度こそ気が遠くなってきた。  両手に突き刺《さ》さっていた杭《く.�》が、軽々と引き抜かれる気配がする。たくましい胸に|倒《たお》れ込み、円陣《えんじ人》から連れ出される。二気に新鮮《し人せん》な空気が肺肺《はしlふ》に流れ込んできたような、休の重石から解放されたような感覚に、影月は思わず目を閉じる。|前髪《まえがみ》を、長い指でさらりとかきあげられた。 「……わかった。いずれ、必ずお茶に行こう。かなり、気に入った」  艶《つや》めいた美声が、影月の耳のそばで笑みとともに囁《ささや》かれる。  その言葉を意識にとめたのを最後に、影月はついに気を失った。          車   齢車l霊 「……いげっ、影月!!起きてくれ!!死ぬな!」   悲鳴のような声に揺《ゆ》り動かされ、影月はぼんやりと目をあけた。へらへらっと笑う。 「……あれー、龍蓮さん……どうしたんです、あははー、そんなものすごいフツーの格好で」 「影月!」   力一杯抱《ちからいっぱいだ》きしめられ、満身創痍《まんしんそうい》の影月は目から火花が出るかと思った。 「ぎゃー痛いです龍蓮さん! もももう少し力を緩《ゆる》めてください」 「わ、悪、かった」   しかし激痛のせいで、影月の頭がハッキリしてきた。 「……あれー……これは、もしかして現実……?」   影月はガタピシ痛む上体を巡《めぐ》らす。囚《とら》われていた同じ窟《いわや》ではあったが、もう杭は打たれてもいなかったし、円陣の中でもなかった。少し離《はな》れた岩壁《がんべき》に、寄りかかるようにして座っていた。 「龍蓮さんが、助けてくれたんですかー?」 「……いや、私がきたときには、もうその状態で寄りかかっていた」 「ええ?」   自分で抜けたはずがない。ぼーっと|記憶《き おく》を探《さぐ》ってみると、やわらかな巻き毛の青年に、何だか散々ぶんぶん一人で勝手に|怒《おこ》って、柄《がら》にもなく説教をした夢を見た気がした。……。 (……。……ま、まさかあれって、現実? いや、まさかー……)  切られた両足の腱《けん》は、完蟄《かんlへき》ではなかったがいくらか治りはじめていた。血も供給されはじめ  ているらしい。『最低限生きてる人間らしく見えること』という約定《やくじょう》を、体は忠実に守ってくれていた。どこまで治るかわからないが、天の助けだった。 「−影月」 「はい? あれ、どうしたんですか龍蓮さん」  龍蓮は影目の前に|膝《ひざ》をつき、……なんと、くしゃくしゃに顔をゆがめていた。 「……私は……」 「どうしたんですかっ・あ、傍目《はため》に死にそうな大怪我《おお〓が》に見えても実は|大丈夫《だいじょうぶ》……」 「わ、私、ほ……以前、お前に……酒を……」  影月はふっと日をつぐんだ。龍蓮が何を言いたいか、すぐに察した。茶草洵に囚われ、何十人もの�殺刃賊″に囲まれ、香鈴と一緒に捕《lつか》まっていたとき。  龍蓮は、影月に酒を飲ませ、 「陽月Lを出した。.龍蓮はうつむき、泣きそうな顔をした。 「私は……お前の、命を」 「龍蓮さん」  影月は、固く|握《にぎ》りしめた龍蓮の拳《二ぶし》にふれた。にっこりと|微笑《ほほえ》む。 「あなたは、あのとき、僕を助けにきてくれました。そうでしょう? L 「……友、失格だ……」 「僕は、あなたが大好きですよ、龍蓮さん。かけがえのない、大切な人です。今までも、これからも、何も変わりません。こんなところまで飛んできてくれただけでおつりがきます」  それでも、口を引き結んで何も言わない龍蓮に、影月は因った顔をした。 「僕は、最後まで龍蓮さんの心の友達でいたいんですけれど!…‥ダメですかっ・龍蓮さんは、もう僕の友達でいてくれないんでしょうか」 「……つ。お前が、消えないなら、何と、引き替《ノ�》えにしても構わないのに」 「わぁ、最高の言葉ですね。もしかして、今まで、その方法を探《さが》してくれたりしました?」龍蓮の目に、傷ついたような光が過《よ》ぎった。  それだけで、影月にはわかった。今まで、多分、限界まで探し回っ.て、……そして、何も見つからなかったのだ。だから最後の最後に、ギリギリに、こうして駆《か》けてきてくれた。 「ありがとうございます。僕はもー本当に幸せ者ですね」 「影月……影月。何か……何か、ないのか……!」  必死な日に、影月は何も言えなかった。嘘《∴ノ.て》も、本当も−彼の心を傷つける。 「じゃあ、最後まで|一緒《いっしょ》にいましょう。僕、行きたいところがあるんですけど、連れていってくれますか? 心配しなくても、僕って我ながら本っ当にしぶといんですよー」龍蓮ほもう何も言わなかった。傷に障《きわ》らないように、初めて龍蓮を受け入れてくれた友人を抱《だ》きしめる。何もできない、泣きたいような無力感とやるせなさを、龍蓮は知った。  大切なものが、砂のように指をすり抜《ぬ》けていく想《おも》いも。 「……行こう。どこにでも連れていく。私の愛する……」  最後の|呟《つぶや》きは、かすれて消えた。  龍蓮に抱《カカ》えられて四叉路《よんさろ》に出た|瞬間《しゅんかん》−。 「! 龍蓮様! ひ、ひどいですわ、女性をおいて一人で先に行かれるなんてー影月様!」  息を切らしながら香鈴は恨《う・り》み言《ごと》を言った。龍蓮は全速力で香鈴をぶっちぎってくれたのだ。 「……香鈴さん……ぼく昨日……」 「もう、あなたの話なんか聞かないと申し上げたでしょう! わたくし、ちゃんとやることは全部やって参りましたわ。お、お、追い返そうとなさったってそうは−」 「ほい、一緒に行きましょう」  影月は血まみれの手を袖《そで》でふくと、微笑んで香鈴にきしだした。  |後悔《こうかい》をしないことが、四歳のあのときから、いつでも影月の信条。 「僕も、香鈴さんと一緒にいたいですから。龍蓮さんもいますから、大丈夫でしょう」  最後まで。  香鈴には、その言葉が聞こえた気がした。  くしゃくしゃに顔をゆがめてーでも涙《なみだ》は必死にこらえて、香鈴はその手をとった。   このときの香鈴は、まだ時間が残っていると思っていた。  ぐずぐずと、未《い庸玉》だに言えていない、大切なたったひと言を告げる時間は、まだある、と。                              範         鞍         鼻  いちばん奥の採振《さい′\つ》場は、それまでの薄暗《うすぐ・り》い坑道《二うどう》と違《ちが》い、|天井《てんじょう》にいくつも開いている明かり取りから直接目の光がさしこみ、旭《ろう》を置かなくても|充分《じゅうぶん》明るかった。 「ようこそ、紅州牧」  白い装束《し喜つぞく》に身を包んだ男たちが、|目深《ま ぶか》に覆《おお》いをしてズラリと並ぶなかで、�千夜�と名乗り、|穏《おだ》やかに微笑んだ四十歳ほどの男は、やはり朔洵ではなかった。  わかっていたとはいえ、秀麗は心のどこかでほっとした。  燕青はこっそりと耳打ちした。 「……姫《けめ》さん、心当たりは?」 「……全っ然ないわ」  どんなにじっくり見ても、やはり秀鹿の記憶のとこにもない顔だった。  恨まれる覚えは欠片《かけら》もない。  秀麗は息を吸い込んで牡《はら》にためたあと、顔をあげて�千夜�を見《√》替えた。  理由など、どうでもよかった。秀麿の仕事はただ一つ。 「自称《じしょう》�邪仙教″教祖�千夜″及《およ》びその信者白病に乗じ、妄言《もうげん》をもって石集村及び周辺住民を拐《カlごわ》かし、金品を巻き上げたあげく監禁《かんきん》した罪はひとかたなりません。全員州府に引っ立て、迫って罪に問います。さ、今すぐおとなしくつかまってください」   いつもならここで燕青の梶《こん》がでるところだったが、もっていなかったので拍手《はくしゅ》した。 「おー。姫さんかっこいー。捕物帖《とりものちょう》みてぇ。俺難しい台詞《せ‖ソふ》いえわーからできないんだよなー 「ばっ、ばかっ。台無しじゃないの!」  �千夜″は内心|呆《あき》れ返った。思ったより、だいぶ頭が弱い女らしい。  (……どうして『お母様』はこんな女まで一緒に連れてこいというんだ?)   さっぱりわからない。どうしてこんな|噂《うわさ》を流したのか、とさえ訊かない。   しかも、実際相対してみたら、元の自分とほとんど大差ない小娘《こむすめ》だ。別に美人でもなし。  �千夜″は底意地の悪い気分になった。 「……どうして、妄言と言い切れるんですか? 実際、あなたが州牧になった途端《とたん》に起こったことですよ。杜州牧ば人きりだったら、何も起こらなかったかもしれません。あなたがぐずぐずと州牧位を捨てなかったから、ここまで長引いたのかも」 「捨てたわ」ノ  秀麗は腕《うで》を組んで、きっぱりと言った。  抑�千夜″は|眉《まゆ》を寄せた。  / 「……なんですって?」  U 「私はもう州牧位にはないわ。貴陽を出立《しゅつたつ》するとき、私の州牧としての権限は、全部副官の鄭《】》悠舜に委譲《いじょう》してきたわ。杜州牧がそうしたように、州牧の証《あかし》である佩玉《はいぎよく》も預けてね。私、杜州牧、浪燕青の三人が不在になる茶州府の指揮を執《と》るのほ鄭補佐《ほさ》だけになるわ。彼に茶州すべてからあがってくる案件を滞《とごこお》りなく処理してもらうために、私のもつ権限を預けるのは当然でしょう。虎林郡だけが茶州じゃないもの。それに、私が州牧位を降りることで病が収束するなら、確かに安いものだわ。女が州牧《ヽヽヽヽ》、だったから病が流行《ほや》ったということだったけど、別に関係なかったみたいね。いっこうに病は収束してなかったもの」  まさか言質《げんち》を取られてはめられるとは思っていなかった�千夜″は腹が立った。 「お前……さっき捕縛《蚤rプJlしヽ》するとか何とかいってなかったか」 「私がするとは言ってないわ。燕青はちゃんと州ガ《し時ういん》だもの。権限あるわよ」   燕青はにやっと笑った。 「そ。言ったじゃん。俺、難しい台詞言えないってさー」  丙太守には最初にすべてを話した。それでも丙太守は変わらず助けてくれた。  �千夜″は鼻で笑い飛ばした。 「まるで曲芸だな。いや、確か前にも同じことをしていたから、芸がないというべきかアト 「悪かったわね! 引っかかっといて偉《えら》そうに言うんじゃないわよ。使える手は何度だって使うわよ。それこそが真の芸じゃないのよ!……あ、あら?」 「いや芸じゃないだろ姫さん。ていうかほんっとよく調べてあるなー。お前、誰《だれ》? もしかして姫さんにお花渡《わた》したくてこんな回りくどい方法で呼んだの〜」�千夜″ほ中央に即席《そくせき》でしつらえた|椅子《いす》に座っていた。ちらり、と秀麗の立ち場所と、円陣《えんじん》の  場所を確かめる。……もう少し前、か。 「別に妄言ではないだろう? 実際、私たちはここにきはじめたころに、ちゃんと村人に言ってあげたんだよ。水に気をつけて、煮沸《しやふっ》して使いなさいとね。誰も聞かなかったけれど。それを無視して発病したのは自業《じごう》自得だろう。まあ、治療法《ちりようはう》を見つけて飛んできたのはお手柄《てがら》だったけれど、もともとは末端《まつたん》まで州府機能を行き渡《わた》らせてなかった役人の|怠慢《たいまん》と民章《たみくさ》の自分本位主義が原因だろう? 州牧たちのせいというのもあながち|間違《ま ちが》った噂ではないと思うが」燕青は奥歯をかみならした。……実際そういう報告は確かにあった。  そのとき、秀願の後ろから、本当に久しぶりに聞く声が響《けげ》いた。 「−ふざけたこといわないでください!」  秀麗と燕青は振《.h》り返り−龍蓮と香鈴に支えられて歩く影月のぼろぼろの姿に青くなった。 「影月くん!?」 「なんだそれ! あのふざけた男にやられたのか!?」  変わらずに飛んできてくれた二人に、影月はとろけるように嬉《うれ》しくなった。  �千夜″は影月の脱走《だっそう》に|驚愕《きょうがく》していた。 (�出られる、わけがない)  すばやく繚家の術者を見る。|驚《おどろ》いているようだったが、何も言わない。  落ち着け、と″千夜″は自分に言い聞かせた。術者がここにいる以上、まだなんとでもなる。  それに『杜影月』ならなんの害もない。  影月は座ることはせず、欄々《らんらん》と�千夜″を睨《ね》めつけた。 「何もっともらしいことを言ってるんですか。ふざけんじゃありませんよ。Fこれから悪いことが起こるから、水は全部沸騰《ふつとう》させて使うべし〜hなんて言葉で、どこの誰が信じるっていうんですか! どうせ、あとで言い逃《のが》れるためにわざと|馬鹿《ばか》馬鹿しく言ったんでしょう。あなたは病を利用したといった。実際、その言葉を村人たちが本気で信じたら困る。違《ちが》いますか?」  言い当てられた�千夜″は薄《うす》く笑ったが、何も言わなかった。 「あなたは、村人が病になろうがどうでもよかった。そうでしょう」 「まあね。だから?」 「−でも、あなたが、いま、使っているその体の本当の持ち主は違う!!」  見たこともない影月の激昂《げつこう》に、秀麗と燕青は驚いた。  影月ほ、同じ顔でも、まるで違う表情の男を睨めつけた。 「堂主様が予防を知っていたなら、子供に石投げられようが馬鹿にされようが、誰にも信じられなくたって、何度だって、繰《く》り返し繰り返し、信じてもらえるまで、歩いて、説明して�村の長《おき》に伝えて、郡太守に文《ふみ》を書いて、それでもダメなら、州牧の許《もと》に出向いて、牢《ろう》に入れられたって直訴《じきそ》したでしょう。あなたのように、口先だけで放《ほう》り投げることなんてありません。人と、命と、この世界の何もかもを愛して、大切に大切に慈《いつく》しんで、その誰かを助けるために何もかもと引き換《か》えに手を差し伸《の》べて�それが水鏡遺寺《すいきようごうじ》の華眞、僕がこの世の誰よりも敬愛する師であり、父です。それを−あの人を、どこまで汚《けが》したら気が済むんですか!!」  どリビリとした大喝《だいかつ》に、燕青さえも震《ふる》えた。 「すげ……。よくわからんが、あのおっちゃんは、影月の知り合いだったのか〜」 「そう……みたいね。でも、華眞って……」  �千夜″は、子供がやるように顎《あご》に手を当てた。本気で村人などどうでもいいと思っていたから、別に何の感慨《かんがい》もわかなかった。それよりも影月の脱走のほうがよほど重大事だ。 (……ま、杜影月のほうはあとでなんとでもなるだろ)  杜影月がずいぶん固執《こしゅう》しているこの体に入っていれば、捕《つか》まえる|隙《すき》は簡単に見つかる。  できたらどっちもとは言われていたが、『お母様hの『本命』は、あの女のほうだ。 「この体から出るかどうかはまたあとでね。とりあえず目的はそっちの女のほうだから」  龍蓮と香鈴の手を借り、影月に出来る限りの包帯を巻き終わった秀麗は、顔を上げた。 「そう、あなた。紅秀麗って女が欲しいんだ。わかってて、きたんだろ?」  秀麗は立ち上がり、腰《−しし》に手を当てた。 「あなたと全然面識がないんだけど、どちら様?」 「聞こえないな。もっとこっちきてよ」  燕青は辺りに気を配ったが、もとより何の仕掛《しらり》けもない。見えない円陣があるだけだ。  秀麗は円陣の三歩前で止まった。�千夜″ほ内心舌打ちしたが、しつこくすれば勘《かん》ぐられる。 「護衛なしできたのも、ここにつかまってる村人を助けるためだろ? 君がぼくと一緒にきてくれるなら、村人は解放するよ。いらないし。おいでおいで」  秀麗は一歩踏み込んだ。円陣に、一歩近づく。あと二歩。  あと一歩。で秀麗は止まった。 「おあいにくさま。今朝《けき》早く、村人さんたちはとっくに連れ出させてもらったわ」 「……なに?」 「牢屋《ろうや》、見てみたら。すっからかんよ。全員残らず石柴村に運び込んで、病気の人はもう切開手術が終わってる頃《二ろ一》だと思うわ。虎林郡から、お医者さんたちが飛んできてくれたから」今朝方、虎林城に残してきたはずのお医者さんたちが飛んできてくれた。丙太守からまだ葉山に病気の人が囚《と.り》われているかもしれないと聞いた彼らは、虎林城の患者《かんじゃ》がある程度安定してムきたこともあり、話し合って半数を割《ヽ−》いて迫ってきてくれたのだ。  葉医師は彼らを怒鳴《ごな》りつけたあと、|珍《めずら》しく、押し|黙《だま》っていた。  −�香鈴が囲われていると知った秀麗は、香鈴を助け出すより、助けてもらう方法を選んだ。  機転が利《�」》いて、度胸もある香鈴なら絶対にできる。  外見はなよやかでも、香鈴の芯《し′八》は強い。 「死体、毎朝運ぶでしょう? あれで、ちょっとね、みんな運ばせてもらったわ」  シュウランがもってきてくれた|眠《ねむ》り薬を、香鈴はまず水に混ぜて重症《じゅうしょう》の病人に飲ませた。  死んだように眠る多くの村人を見て、牢屋番は荷車をもってきた。  最初に運ばせたのほ、本当に亡《な》くなってしまった人だ。いつものように死体を捨てに行った牢屋番は、待ちかまえていた静蘭が伸《の》して入れかわる。白装束に扮《しろしようぞ′\ふん》した静蘭は、荷車をもって  シュウラソの情報どおり、牢屋へ向かう。次から運ぶのは、勿論《一じちろ人》生きてる村人たちだ。 「−馬鹿な。確かに今日もいつも通りいたと報告を受けてる」 「そりゃ、気づかれるのは遅《おそ》いはうがいいもの。私と燕青が来る前にばれちゃったら、影月くんに何されるかわかったもんじゃないでしょう。だからちょっと細工したんじゃないの」静蘭が運び出した村人と入れ替《か》わりに、荷車には石菜村に復興に来ていた人々に入ってもらった。毎朝のことだし、底の深い荷車にポロ布でもかぶせておけば誰も不審《・ルし人》に思わない。万一見替《ふとが》められたら、静蘭がぶちのめして荷車に|一緒《いっしょ》に放《はう》り込めばいい。  そうして、村人がどんどん外へ運ばれていき、入れ替わりに牢屋の中には復興のおっちゃんじいちゃんたちと、運の悪い『信者』が転がることになる。つまり見た目の人数は変わらない。  香鈴を呼びに来た男は、病気のふりをして坤《うめ》いてるおっちゃんたちを見たのだ。 「勿論、復興にきてくれたおじさんやおじいちゃんたちはタダモノじゃないわけ。静蘭選《え》り抜《ぬ》きの茶州軍最精鋭《さいせいえしl》、各軍をまとめる将軍さんたちが、ぞろぞろと石柴村復興にきてくれたのよね。おかげで|凄《すご》い速さで石集村は|綺麗《き れい》になって、さすがだわ。さて、牢に入ってるはずの彼らは、今どこでどうしているでしょうフ」″千夜″は、やけに静かな白装束の『信者』たちを見た。  繚家から連れてきた術者は数人。他《ほか》は適当に集めてきた破落戸《ごろつさ》だ。彼らを隠れ蓑《か! 、みのl》にトンズラしようとしていた�千夜″には、勿論どうでもいい奴《やつ》らだ。気にかけるわけもない1。 「おーい静蘭、いいぜ」  次々と|目深《ま ぶか》な覆《おお》いを外したそこからほ、|鍛《きた》え抜かれた精惇《せいかん》な面差《おもぎ》しがのぞいていく。  音を立てて剣《りん》や|槍《やり》が抜かれていく。  中の一人が、Cl信者』たちの持ち物だったそれに、情けなさそうに|溜息《ためいき》をついた。 「……鍬《くわ》や鋤《すき》のがマシでしたな。なんたる粗悪品《そあくひ人》……。ま、使えぬことはないだろう」  最後に覆いを外した静蘭は、にっこりと�千夜″に笑いかけた。 「この場にいる、あなたがたを捕まえるので最後です。牢屋から出たあと、見つけた『信者』は片っ端《ぱし》から気絶させて、服を糾《..》いで、山の外に放り出して、入れ替わりましたから」  州将軍をしのぐ権限をもって、各地に散っている腕利《うでさ》きの将軍たちに召集をかけ、鎧《よろい》の代わりにポロ布を、剣の代わりに鋤と鍬をもって、なんとしても秀麗たちが石集村に向かうより先に、石集村に飛べと命じたのは静蘭だった。  他にも、飛び回る全商連の荷馬車護衛を州軍と入れ替えさせたり、虎林城に武官という男手を次々飛ばすなど、後ろで支えたのが静蘭だった。  それは、静蘭にしかできない仕事。  復興だけで終わるならそれでいい。けれどそうでない時の布石も磐石《げんじゃノ、》に打つ。  誰一人《だれひとり》、殺さないという秀麗の理想を貫《つ・りぬ》かせるための、武官だからできる|完璧《かんぺき》な紺佐《まさ》。 「戦わなければそれにこしたことはない、でしょう〜お嬢様。《川しトそつ七Jま》どうですかっこ」 「最高よ、静蘭。文句なしにカッコいいわ。ものすごく鼻が高いわ」 「ありがとうございます」  そのときの静蘭の満面の笑《え》みを見てしまった燕青その他将軍たちは、背筋が冷えた。 (……誰《だれ》だよこいつ……)  特にいつもいじめられている燕青はガクガクと震えた。  秀麗は″千夜″を見据《みす》えた。 「−影月くんの言う通りよ。私はあなたたちを許さない。何が目的かなんて、興味もないわ。どこの誰だろうが、関係ないわ。人の、命を利用するだけ利用してー」  シュウランの、お父さんも亡《な》くなってしまった。もし彼らが、予防法を教えていたなら。  生きていたかもしれなかったのに。  彼らは自分たちだけ予防し、自分たちの言葉を信じさせるための手段とした。  ただ、秀麗と影月を捕《と》らえるために。 「あなたは、私と影月くんにも、片棒を担《かつ》がせたのよ。絶対に許さないわ。−捕らえて」  秀麗が、一歩�足を踏み出した。円陣《えんじん》の、中に。  術者たちが目を光らせるのを、�千夜″ほ見た。−勝った。  けれど秀麗の足が円陣を打つ寸前−秀麗は誰かに後ろから勢いよく腰をさらわれた。  殺気がなかったとはいえ、燕青もギリギリまで気づかなかったほどの速さだった。  秀麗も燕青も、|呆気《あっけ 》にとられた。 「リオウ君!?」  秀麗を後ろから引き寄せたのは、まぎれもなくリオウだった。  だが、秀願たち以上に愕然《がくげ人》としていたのは、�千夜″と繚家の術者たちだった。  ″千夜″は、静蘭に剣を突《つ》きつけられているのも構わず、立ち上がった。 「リオウ!?なんでお前がここに�いや、なぜ|邪魔《じゃま 》をした!」 「……馬鹿が!」  リオウは険しい顔のまま秀麗を離すと、右手に持っていたものを無造作に投げた。  鈍《▼』�l、》い音を立てて�千夜″の前に転がったのは! それは。  秀麗は思わず悲鳴を上げそうになった。  それは、十五、六ほどの、少年の首、だった。  �千夜″の目が、いっぱいに見開かれた。 「——ば…くの……首……お前がやったのかリオウ!?」 「違《らが》う。俺があの男を迫って、お前の体を見つけたときには、すでに切り離されていた」  秀麗が後ろを見ると、誰かが無様に転がっていた。                                              一−_lー  リオウは″千夜″を睨《ょ�L°▼》《−》み付けるように見た。 「わからないのか、漣《レ.′》。あの男があの室《へや》に行くとき、すでに見張りはいなかった。もう見張って、守る必要はないと、そこにいる術者たちは知ってたんだ。もうお前は元の体には戻《一旦ご》れない。体は完全に死んだ。�お前の、首を切り落として、帰る体をなくしたのは誰だ?」  �千夜″−漣はゆっくりと、繚家の術者たちを見た。誰もが無言で、落ち着き払っている。 「……Lよ′〕ヘリ、トこ,。こ一  呆然《り�っ椙】′八》とリオウに訊《き》きはしたが、本当ほ答えはわかっていた。   そして、リオウはそのとおりの言葉を告げた。 「……お前は、捨て駒《ごま》にされたんだ、漣。今回は、単なる様子見−うまくいけばもうけもの程度だったんだ。この二人を手に入れようとしたら、誰が、どこで、どう、動くか。それを、あのひとは見たかったんだ。少しつついて、相手がどんな布陣《ふじん》をもってるか。藍家の末《すえ》も動いた。紅家も様子を窺《うかが》っている。浪燕青も静蘭も侮《あなご》れない。中央にほ女官吏《か人り》に反感を持っている者が多い。それだけわかれば充分。《じゆうぷ人》�邪仙教″の話はやや大事《おおごと》になったから、あとはトカゲの尻尾《しっぱ》を切るように、お前ごと切り捨てた。……そういうことだし  ちらりと、リオウは龍蓮を見た。けれど龍蓮の視界にあるのは、ただ影月と秀麗だけだ。  誰が、などと漣は訊かなかった。かわりに笑いだした。   能無しだから。男だから。何の役にも立たないから。    −お母様、お母様、お母様。   そう、わかっていたはずだ。何の能力もない、ぼくのような人間は、『お母様』はいとも簡単に切り捨てる。自分で言ったことだ。書き損じた料紙を筆ふきに利用して捨てるように。   何もかもどうでもいい存在。漣が生きてることさえ、あのひとは気づかないに違《ちが》いない。   能力がないなら、ないなりに、書物を読み、剣を鍛えても、まるで無意味。   どんなにどんなに求めても、あのひとが自分を見たことは一度もない。   そして、これからも。   惨《はかな》い夢を見ることさえ、許さない。小さな期待も何もかも粉々に壊《こわ》し尽《つ》くして。  ……それでも、夢を見て、愛してほしいと、思ってしまう、自分がいちばん憎《一」く》い。   書物を読んで、ずっと憧《あこが》れてたー温かくて、|優《やさ》しくて、日だまりのような笑顔《えがお》を向ける。  いつか、自分にも。いつか−封……。   お母様、と。涙《なみだ》のかわりに、呟きを落として。漣はリオウを見下ろした。 「……ふん、お前も、気をつけることだな。お前は璃桜様の血を《 「》継いでいるから、ぼくと同じ『能無し』でも、 「お母様』に生かされているだけだ」 「知ってる」  リオウの瞳《!?lし」み》にも、その声にも、淡々《たんたÅ》として何の感情もなかった。   漣ほ、|僅《わず》かの哀《あわ》れみを込めてリオウを見た。同じ名前をつけるほどの執着《しゅうちや′1》は、ひるがえせば 「リオウ』などまるで見ていないという証《あかし》だった。名前さえ『リオウ? −.のものではなく。  いつでも、《九、》彼の女《ハJLこ》の視線の先にいるのは、ただ一人、弟の璃桜様だけ。  同じ『無能』同士、リオウと漣はときどき、一級《いつlしょ》に書物を繰《く》ったりもした。   漣ほ、その時間が嫌《ヽ」・り》いではなかった。けれど、もうその一時を過ごすこともない。   もう、『お母様』のことで、心がバラバラになることも。 「じゃあな」   体は既《すで》に死んでいる。漣はただ−自分が『もう死んでいるLことを認めればよかった。   そして、ぐらりと、華眞の体がくずおれる。   リオウに引きずられ、いいように隅《すみ》に転がされた朱温は、ぶつぶつ呟いていた。  あんなクソガキにも、殴《なぐ》られて|馬鹿《ばか》にされるだと? いったい何がどうしてこんなことになったんだ?そうだ、何もかも、あの女がきてからめちゃくちゃになった。あの女は疫病神《やノ、げようがみ》なんだ。くそ、くそ、くそ。許さねぇ。ぶち殺すぶち殺すぶち殺す!。   きろり、と目だけで女を見ると、どこか別の方を向いていた。    −殺す。  朱温はバネ仕掛《じカ》けのように跳《ま》ね起きると、剣を抜いて秀麗に|襲《おそ》いかかった。 「燕青!」                   h一117  静蘭が咄んだ。   ー秀鹿の目の前で、鞠《 よhり》のように、死体が転がった。龍蓮が鉄笛に手をかける隙もなかった。  燕青は感情を消したHで、ぬらぬらと真っ赤な血に濡《ぬ》れた刃《やいば》を見下ろした。切っ先からほ雨のように絶え間なく赤い雫が岩肌《しずくいわはだ》に血だまりをつくる。   |溜息《ためいき》を、ついた。なるべく、いつものように、言葉を紡《つむ》ごうとする。 「……あー……ごめん、姫《けめ》さん、俺、……ほんっと、剣《けん》、下手なんだ。練習だろうがなんだろうが、他《ほか》と違って、手加減ってもんがまったくできなくてさ。……殺すしかできわーんだ」�殺刃賊《さつじんぞく》″に家族をバラバラに切り刻まれて皆殺《みなごろ》しにされて以来、燕青は刃のついている武器  はどれも嫌いだった。だから体術と梶《こん》を選んだ。  けれど、人生でただ一度だけ、決めていた。家族の仇《かたさ》であるあの男を殺すときだけほ、剣を使う。家族を切り刻んだ同じ武器で、あの男を殺す。それからは、もう二度ともたない。  そして、復讐《・で1し時う》は果たされた。けれどその男を殺すためだけに磨《みが》いた剣に、手加減という文字はない。ただ息の磯を止めるためだけに体は動く。鞘《さや》から抜《ぬ》けば、殺すことしかできない。  一番得意なのは格闘《カくとう》と梶。けれど一番締麗《されい》に人を殺せるのは、剣。  秀席に背を向けたまま、燕青は乱暴に頭をかいた。  さすがに、秀麗の顔は振り向けなかった。  秀麗が燕青の前に回り込む。燕青はギクリとした。けれど、秀麗が言った言葉は�。 「ありがとう」  まっすぐ、真筆《し人し》に燕青を見上げて、秀麗はもう一度言った。 「守ってくれて、ありがとう、燕青」  秀麗は燕青の|両腕《りょううで》を強くつかんだ。 「全部−全部、引き受けるから。燕青が殺したんじゃない。私が殺したの。この二人の命は、私が背負うから。あなたは、約束を守ってくれただけだわ。副官として、上司を、守ってくれただけだわ。私が、全部、何もかも引き受けるから」  燕青は、ゆっくりと|瞬《またた》いた。  前にも、秀麗は同じことを言った。 「……でも、何があっても、私が引き受けるから……』虎林城の民《たみ》を相手に、棍を向けなくてはならなくなったとき。  秀麗は自分でその言葉の意味をわかってなかったようだったが、いま、実践《じっせん》してみせた。  何があっても、認める。信じる。決して疑わない。すべては秀麗を守るためにしたことなら、罪も想《おも》いもひっくるめて全部、燕青の心も丸ごと、受け入れる。 (あー……やっぱ、姫さんが上司って、いいなぁ)  信じてもらえるのは嬉《うわ》しい。けれど、『信じるしことはとても難しい。  絶対に守ると、宣言してくれる上司はそういない。  ちらりと静蘭を見れば、目角を《lノ》計り上げるようにして笑んでいた。   十五年前に傍《そば》にいた静蘭は、燕青の決意を知っていた。その上で剣をもたせた。          す.ー Jl 「誰《◆ノ ‘》かを殺してでも秀麗を守れ』  仕えろーと。 (くそー……俺も静蘭の読みどおりかよ……)   誰かのために人を殺してもいいと思うときがくるなら、人生預けられる相手だと思っていた。  うつつ・いつかそんな口がくるとしても、それほ、もう少し秀鹿が官吏として色々と成長して、器が大きくなってからだろうと思っていたのだが。  本当は、心のどこかで気づいていた。   いつか、と思っていた。そうぶどこかでその夢を見ていた。それが今でもいいだろう。最  後まで官吏《かんり》のままでいさせてやるという約束は、……今回だけのつもりだったけれど。 (まあ、いっか。姫さんになら、俺の人生くれてやっても)  誰かを殺すのは大嫌《だいき・り》いな燕青にとって、きっと秀麗の傍はとても居心地《いご二ち》が良いだろう。  静蘭の手綱《たづな》も、誰か傍でとってやらないと、秀麗が一人で苦労して可哀相《かわいそ∴ノ》だ。 「……燕青? な、なんでにやにや笑ってるのよ……」 「んー、俺、ほんっと勉強ガンバらねーとダメだなぁってさ」 「勉強ですって!?いやー燕青! どっか頭の弦《げ人》が切れたんじゃないの!?」 「お嬢様、大丈夫《じょうさ主.だいどよら∴》です。常に弦は全部ぶち切れ状態ですから、たまに正常になるだけですよ」 「……もれなくくっついてくる野郎《やろ∴ノ》の口の悪さだけはなんとかなんわーのかなぁ……ん!?」  漣以外の術者たちは大人しく縛《しイ‥》られていっている。が−。  燕青は首を巡《め√・》らし�リオウの不在に気づいてぎょっとした。 「リオウどこ行った!?」  静蘭も色を変えた。けれど、その場のどこにも、リオウはいなかった。  いくら燕青や静蘭が少し気を抜いたからといって、それは縦横無尽《じゆうおうむじ人》に張《は》り巡らされた網《あみ》の目の、たった一本を外した程度のものだ。ネズミ一匹《びさ》の気配さえ見逃《みのが》すはずがない。けれど、ネズミさえくぐり抜けられないその|隙間《すきま 》を、見事にリオウはくぐり抜けて消えた。 「……あいつ、本当になんだったんだフうーかあいつ姫さん助けてくれたのか?」  首を傾《かし》げていると、影月が龍蓮と香鈴に支えられて、足を引きずるようにやってきた。   秀麗はハッと影月に手を差しのべた。嬉《うれ》しそうに、影月が|微笑《ほほえ》む。それを見た秀麗は、僅かに安堵《あんご》した。よかった、命に別状はなさそうだ。やっぱり、擢州牧の言葉は何かの比喩《!?l時》−。   けれど、龍蓮の真っ青な顔色に息を呑《の》む。手を離《はな》せば|煙《けむり》のように消えてしまうかのように、ずっと影月を見つめるその瞳は焦燥と動揺《ひとみしようそうごうよう》に揺れて、秀麗の心を|不吉《ふ きつ》な影で|凍《こお》りつかせた。   影月は、華眞の体の傍に、倒れるように|膝《ひざ》をついた。   |眠《ねむ》るように優しい寝顔《ねがお》は、今度こそ、影月の|記憶《き おく》のl中にあるものだった。 「……堂主様」   |前髪《まえがみ》を払《は・り》う。もう——何年も、見ていなかった顔は、昔とさほど変わらない。   もう一度、会えるとは思わなかった。   愛して、愛して、愛した人。それ以上に影月を愛してくれた人。   すべてをくれたひと。   散々我櫨《わがまま》を言って、でも、すべての我値を、笑って聞いてくれた人。 「……幸せでしたか? 堂主様……」   答えは、聞かなくてもわかっている。   この世の誰よりも世界を愛して、世界から愛された人。きっと最後まで笑って。   だから、影月も泣くかありに、笑った。   すべてのはじまりのとき。 「……あのとき、手を、繋《つな》いでくだきって、ありがとう、ございました」   命の砂が、こぼれおちる。   影月の陸毛《まつげ》が、ゆっくりとおりていく。   呼ぶ、声がする。   秀麗や、龍蓮や、燕青や、静蘭や�そして……。   最後まで、大切な人たちがそばにいてくれる。 (ああ……僕は、本当に)  本当に、幸せ、だった。   心が、灯《あか》りをともしたかのように、あたたかくて。 『ね、影月、誰かを愛すると心がポッとあったかくなって、それだけで幸せだね……』   はい、堂主様……本当に。  あるはずのなかった十年。  天の運命を変えてでもと願ったこの十年間は、まるで夢のように過ぎ。  かつて何もなかった掌《てlのひ・リ》にほ、いまや抱《カカ》えされないほどの大切な想いを抱《いだ》く。 (陽月……)   いつだって、本当に危ないときは、自分と堂主様を守ってくれた。  君がくれたもの。君が守ってくれたもの。  独りぽっちだった僕に手を差し伸《lの》べてくれた、かけがえのない半身。  最後まで、君は僕の我健を叶《かな》えてくれたね。 (いつか、君が)  長い、長い時を過ごしたあとに、疲《つか》れて眠りたくなったのなら。 (僕と堂主様が、迎《むか》えに行ってあげるから……)  香鈴の、声がする。  ああ……どうか泣かないで。  最初で最後に、恋《こい》をしたひと。  どうか笑って。……どうか、幸せに。  過ごしたすべての時間。  何もなくしていない。  自信がある。堂主様と同じくらい、僕は、幸せだった。 (……陽月……)  君がいてくれて、よかった。  ……命の最後の雫が《しずく》、すべり落ちていく。喉《のど》の奥に残っていた|吐息《と いき》が、こぼれて。 (そう……いちばん最後に)  たくさんの『ありがとう』を、陽月《さみ》に。 「〜……」  最後の|呟《つぶや》きは、声になるまえに消えて。  愛する人たちを絆だ《ひとみ》けで抱きしめるように一度だけ|瞬《またた》き、静かに、|瞼《まぶた》をおろした。          怨魯鈍歯lぼ  影月の最後の欠片《かけら》が、こぼれおちていくのを、香鈴は見た。  いま、まさに、香鈴の抱きしめる、この腕《うで》の中で。                                                            ヽ‘  影月の命がすり抜《lょ仇》けていく。 (行かないで)  行かないで。  まだ言っていない。  何も言っていない。  伝えるはずだった、大切な大切な言葉を。  影月が、ぐらりと、華眞の体に向かって倒れ込む。  重なり合う寸前、『影月』の腕が、体を支えるように地を打った。  秀麗や龍蓮が、ホッとしたように息をつくのが見えた。  けれど、香鈴にはわかっていた。  この、ひとは。 (漸う)  ゆっくりと、『影月』は身を起こした。  小さく頭を振《ふ》って、前髪をかきあげるように額を押さえる。  猫《ねこ》のようにつりあがった目。纏《まと》う空気は、剣《けん》のような鋭《するど》さにかわり。  陽月は、そのまま体の下にある華眞の顔を、感情の見えない、深い双鉾《そうぼう》で見つめた。  やがて、音もなく立ち上がる。 「……影月、くん……?」  注意深く訊《き》いた秀麗を見つめ、そして、|呆然《ぼうぜん》と涙《なみだ》をこぼして見上げてくる香鈴を見た。  何もかも振り捨てるように、陽月は背を向けた。  すべては終わったのだ。 「『影月hほ死んだ。もうこの世のどこにもいない」  |容赦《ようしゃ》なく、香鈴の心を粉々に砕《くだ》いて。                                                                                                    t l二▼J心                                                         細いご                                                                                                                               て、−.‥                                                                      二��  秀麗は、消えた陽月を捜《さが》して、静蘭や燕背と|一緒《いっしょ》に、例の坑道《こうごう》にもう一度入っていた。龍蓮は山のほうを、香鈴は……石集村の民家を情りて無理矢理眠らせた。                                                                                                                        ヽ1..J  何の気配もなく、シソと静まり返った坑道は、夜でも牛《′′rしノァ》でもたいして変わらない暗さだが、やはり夜だといっそう足音が不気味にこだました。捜索し尽《そうさノ、つ》くし、もう誰《だれ》もいないことがわかっているため、三人は別れることにした。 「ではお嬢様《じょうさと》は正面を頼《たの》みます。私は右を」 「俺は左。ここで落ち合おうぜ」 「わかったわ」  例の四叉路《七」ろ》で、別れる。  秀麗は午間、�教祖″と相対した採掘《さい′1つ》場へ向けて、ひとり駆《か》けた。  陽月が姿を消したときから、|鼓動《こ どう》が、やまない。耳の近くでガンガ/響《ひげ》いたまま。  嫌《いや》な|汗《あせ》が全身の毛穴という毛穴から吹《ふ》きだす。手足がしびれたようにずっと震え続けている。  擢州牧の言葉が頭をぐるぐる巡る。『死ぬ』ではなく、¶消えるLという、言葉の意味。 (信じないわ)   あれが最後なんて。もう『影月』に二度と会えないなんて、信じない。認めない。   さずっと秀麗を助けてくれた日だまりのような笑顔も言葉も。喪えるわけがないー。   手にした|松明《たいまつ》で地面を照らしながら、採掘場へ入る。薄暗《うすぐら》くはあったが、天窓から差し込む月や星の灯《あか》りで、坑道よりも見通しがきいた。秀麗は必死で声を張り上げた。 「陽月くん! 影月くん! いるなら返事して! お願い、出てきて、ちゃんと説明して!!」   天窓に吸い込まれなかったぶんが、ゆわんと窟《ノ、つ》に反響《はんきょう》した。  誰もいない。最後にもう一度、全体を見渡《みわた》せる採掘場の真実中に行こうとした。   真ん中−午間、円陣《えんじん》が描《えが》かれたままの、そこに、足を、踏み入れた。 「……え……?」   どん、と何かが体を突《つ》き抜けた気がした。   息が、止まる。頭の中が真っ白に染まった。   何が起こったのか、まったくわからなかった。   全身を、見えない鎖《くさり》で身動きのとれないよう、縦横に縛《しげ》り上げられていく。   自分の体の、奥のさらに奥から、何かが、引きずり出されるような感覚がした。   頭の奥で、弾《はじ》け飛ぶように意識が焼き切れる。秀席は音もなく円陣にくずおれた。  ……ふわりと、その場にやわらかな巻き毛が揺《紬》れる。   しなやかな獣《けもの》のように気配なく現れた彼は、沓音《くつおと》ひとつたてずに秀麗に近寄った。  円陣の端《はし》を足で踏みにじり、効力をなくす。気を失ってくたりと|倒《たお》れたままの秀麗を、まるで|繊細《せんさい》な硝子《ガラス》細工を扱《あつ⊥�.》うかのように|優《やさ》しく抱《だ》き起こした。   さらさらと流れた|前髪《まえがみ》をすきやり、そのまま頬《ほお》から顎《あご》を愛《いしー》しむように指先でなぞる。  まるで、ひとつひとつを|脳裏《のうり 》に焼き付けるかのように、彼は秀麗の顔を見つめた。  小さな……本当に小さな|溜息《ためいき》をひとつ、そっとこぼして、一度だけ、秀麗の髪に口づける。  |膝《ひざ》の裏をすくいあげるように、意識を失ったままの秀麗を抱き上げ、採掘場から坑道へ運び出し、静蘭と燕青が見つけやすいように置いておく。そのまま、暗がりに身を潜《けそ》める。  なかなか戻《もピ》ってこない秀麗を心配して駆けてきた静蘭と燕青が、秀麗を見つけた。 「お嬢様!?」 「まさか疲れすぎて倒れちったのかー!?」  静蘭が抱き上げ、元来た道をもどっていくのが見える。  朔洵ほ、ほんの少しだけ大人びた秀麗の寝顔《ねがお》を思い出した。  ……本当は、会うつもりでいたのだけれど。 (君の二《二》胡《こ》と、お茶は、もう少しお預けだな……)  あの少年の、まっすぐな言葉は、とても胸に響いた。  世界は、多分、本当は面白《おもしろ》かったのだ。朔陶が、夏にあの少年を見向きもしなかったように、その本質にただ気づかなかっただけで。  彼の言うとおり、一度目は、ただ自分のためだけに好きなように生きた。   では、二度目は?   掌《ての!?・り》にある願いも、望みも、今度はどんなふうに叶える?   朔洵は長い睫毛《まつげ》を降ろし、唇《くちびる》の端で小さく|微笑《ほほえ》んだ。   ……そう、今度は、失敗をしないように。   朔画は優艶《ゆうえん》に微笑むと、姿を消した。          態歯車歯臆   その夜、彼は日だまりのように微笑みながら、その少女の許《もと》に向かった。   |扉《とびら》も、|壁《かべ》も、すべてを空気のように通り抜けて。   彼が育てた子供を、好きになってくれた少女は、深い深い昏睡《こんすい》のなかにいた。   消えた陽月を迫って、一晩中でも山の中をさまよいかねなかった少女を心配して、周りの人たちが強引《ごういん》に|眠《ねむ》り薬を飲ませたのだ。   いくつもの涙の跡《あと》が、白い頬に残っている。   彼はちょっと悲しそうな顔をして、その類にふれた。疲《つか》れ果て、深く傷ついた痛々しい顔。   彼の子供を、こんなに好きになってくれたことは嬉《うれ》しかったけれど、そのためにこんなに悲しい顔を見るのは、とてもつらかった。 (不器用な子供で、ごめんね。……あの子を好きになってくれて、ありがとう)  瞳を和ませ、優しく少女の頭を撫《な》でると、彼は次の行き先に向かった。  柴山に囚《とら》われていた村人を診《み》ていた葉医師は、彼を見ると、目を丸くした。 「……華郷」 「の、子孫です」  葉医師は、半分透《寺》き通っている彼の姿にも動じず、すぐに|納得《なっとく》したように領《うなで》いた。 「お前が、華眞か。なんだ、どうしたんだそりゃ」 「さあ。気づいたらこうなってました。せっかくの機会を活用しようとフラフラすることに」  華眞は、実は大切なこと以外はあまり深く考えないタチだった。 「……葉老師、お会いできてよかった。あなたに、ご伝言があるんです」  それは代々華家に伝わる、医術とは別の、もうひとつの継承。《!?いしょう》 「私の一族に、放浪者《ほうろうしゃ》が多いのは、みんなあなたを捜していたからなんですよ、葉綜庚《しゅこう》殿。王に|処刑《しょけい》される寸前、何かあったらあなたに伝えて欲しいと華郷が子供に託《たく》した言葉があるんです。私たちは、その言葉をあなたに伝えるために、代々国中を巡ってきました」葉医師の目が、ゆっくりと見開かれる。  日だまりのような微笑みで、華眞はその言葉を伝えた。 「あなたの子供が産みたかったわ、だそうです一址《はら》に力を込めていた葉医師は、まったく、何を言われたのかわからなかった。 「………………。………………何?」 「道端に落ちてた美少年に子持ちの若い未亡人が恋したって別にいいじゃないですか。なんでも気づいたときにほもう若くなくて言うに言えなかったとか。ああそうそう、あなたから言ってくれるのをずーっと期待してた私が|馬鹿《ばか》だったわ、とも伝わっていますね」  唖然としている葉医師に、華眞ほ笑った。 「だから華家の血筋はみんな、旅先に落ちてるものはよく拾うし、|隙《すき》あらは大切な人にたくさん『愛してる』というようになったんです。ご先祖の教訓です」おかげで華眞も、とてもとても幸せな人生を、過ごすことができた。  大切な、二人の子供と一緒に。 「……時々、気まぐれのように現れては消えるあなたと、そうして何十年も過ごしていたのに、最後まで、一度も、あなたに愛してると言えなかったことが、人生|唯一《ゆいいつ》の|後悔《こうかい》だと」  口愛してるわ。  帯星《はうきぼし》のように、人生を駆け抜《ぬ》けていった女。 「いつか、わかるわ』あの馬鹿女の面差《おもぎ》しに、少しだけ似ているその男は、音もなく立ち上がった。 「お伝えできて、よかった……。それでは、最後に行くところがありますので」 「……おい」 「はい〜」 「華郷に会ったら、馬鹿女といっとけ」 「わかりました。『俺もずっと君のことを愛してたよ。言えなくてごめんね』ですね」 「馬鹿野郎《やろう》ふざけんな! あっ、待てこらてめぇー」 「私も、本当にあなたにお会いしたかったんですよ。お会いできて、嬉しかった」  華眞ほどこかいたずらっぽく笑《え》み、そして、消えた。  華眞は、最後に、山の中腹の、月が見えるその場所に足を運んだ。  そこには、一人きり片膝《かたけぎ》を抱《かか》えて、うつむく子供の姿があった。  華眞ほ、そばに膝をつき、透《才》けて見える指で、陽月の頬にふれた。  陽月は、まるで華眞が見えないかのように、身じろぎもしない。  華眞は微笑み、優しく陽月の頭を撫で、胸に抱きしめた。  大切な大切な、愛しいもう一人の子供。  噴《ささや》く。 「|大丈夫《だいじょうぶ》……君の、好きなようにしていいんだよ」  そしてほんの束《つか》の間の『|奇跡《き せき》』は終わる。  撃は艮乃本が、容《レ】》するようこ偵口えて�く。  どこにいても、どんなに時が流れても。  たとえ露《つゆ》のようにこの命が消え果てても。  この心だけは君に、残していくから。 「私も影月も、いつまでも君を愛してるよ。陽月……命をくれて、ありがとう」  そして紡《つむ》ぎ糸がほどけるように、あとかたもなく華眞の姿は消え失《うl》せる。  すべてが夢のように終わったあとに、陽月はゆっくりと月を見上げた。  嘲笑《あぎわら》うような三日月。   −ありがとう……。 「……くそったれ」  次いで、刃《やいば》のような目を後ろに向ける。 「柄《が・り》にもねーことすっからだぜ、白夜《げ一やくや》」  後を迫ってきた黄葉が、|呆《あき》れたような溜息をついた。  黄葉は、白夜を見下ろした。 「わかってるだろ。あと一つだけ、手はまだ残ってるぜ」 「……なんで、オレがこいつのためにそこまでやってやんなきゃならん」 「バッカお前、とっくにここまでしてやってて、今さらそんなこと言うわけ。笑っちゃうね。  いっとくけど、国試前にお前見たときオレも紫宵《ししょう》もマジで目を疑ったぜ。も、ほんと変われば変わるっつーか。あの�薔薇姫″の予言はどじゃないけどな」  ぴくりと、白夜の|眉《まゆ》が寄った。  黄葉は腕《うで》を組んで、遥か下の石菜村を見下ろした。 「聞いたときは絶対ありえねうて爆笑《ぼ′\しょう》してたのにさ。……本っ当にまんま成就《じゆうじゆ》したからな。あれに比べりやちょっとしたこったろ。いーんじゃないの。気まぐれはお前の得意技《とくいわぎ》だろ。どうせ長くてせいぜい五十年だ。俺たちにとっちゃ、|瞬《またた》きよりも短い時間だぜ。たまーに、こっ《ヽヽ》そ《ヽ》り《ヽ》出《ヽ》て《ヽ》く《ヽ》る《ヽ》時《ヽ》間《ヽ》くらいはつくれるだろ。そんときは美《う》味《ま》い酒もってってやるよ」  そうして、黄葉も消えた。  やがて天にかかる三日月に嘲笑《らトゃつしよ、つ》を返し、白夜は立ち上がった。                                        溌可1         �舶鞄.                穂‥療机�机…瑞 「お帰り、リオウ。お疲れだったね」  リオウは、久しぶりに目にする父の姿に、少しばかり瞳を揺《けとみゆ》らした。 「……杜影月は、無理でした」 「わかってる。姉が横から手を出さなければ、あのまま静かに消える隙をつけたかもしれなかったのだけれど、まあ、|駄目《だめ》で元々だったからね。気にするな。お前に華員の死体を捜してもらったのに、無駄足《むだあし》をさせてしまったね」  璃桜は少しばかり駒《こま》を打ったあとは、静かに待つつもりだった。元々今回の狙《ねら》いは杜影月だけで、ユキギツネの移動と気象条件から、柴山近くであの病が起こることは予想できた。それを知れば杜影月がこないわけがない。リオウをやって柴山に破落戸を集め、適当に|騒《さわ》がせて州府に病を知らせる。飛んできた杜影月の時が《つ》尽きるのを待ち、際《すさ》をついて捕《と》らえられれば上々ー何かの役に立つかと華眞の死体を捜《さが》させはしたが……璃桜が打った手はそれだけだ。それを姉が横から手を出し、華眞の体を|奪《うば》い、�邪仙教″を乗っ取っていいように利用した。  璃桜は白銀の髪を揺らし、|面倒《めんどう》そうに|溜息《ためいき》をついた。たとえ璃桜と姉の目的が似て非なると知っていても、よほどでない限り、姉が何をしょうが璃桜にとってはどうでもいいことだった。  もともと興味関心に偏《かたよ》りがある璃桜の心を占《し》めてきたのは愛憎含《あいぞうふく》めてごく数人であり、そこに姉は別に入っていないからだ。今度も璃桜は姉を適当に放っておくことに決めた。  ふと、璃桜はもう一つの捜しもので、城まで会いに行った娘《むすめ》を思いだした。  ——−璃桜の愛した″薔薇姫″ではないけれど、自然と唇が《くちげる》ほころんだ。 「リオウ……あの娘は、どうだった?」 「……二胡《にこ》を、弾《ひ》いてました」  ふっと、璃桜の|漆黒《しっこく》の鉾が《ひとみ》、ゆるゆると色を深くした。 「……二胡、か。懐《なつ》かしいものを聞いたな」  リオウはただ視線を落とした。  璃桜の姉は、弟の璃桜しか見ていない。けれど璃桜は�畜薇姫″しか見ていない。          ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ        ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ  もう何十年も、ずっ士そのまま。  永遠に変わらない螺旋《らゼ人》。リオウの存在がどこにも入らないことも同じ。 (何をバカなことを。……らしくない)  自分の役目は、様子を見ること。特に伯母上《おばうえ》が手を出してきてからは、余計なことはしないほうがいいと判断して、村に下りた。漣にも、自分の存在は隠《かく》した。  それでも、あのとき、円陣からとっさに秀麗を引きずり戻したのは、確かに裏切りだった。  ……漣が、いつも悪口《あつ二う》をはきながら、心の奥では変わらずに願っていた想《おも》い。  膝枕《ひギーまく・り》も、二胡の子守歌も、誰かがあかざれに薬を塗ることも。あやしてくれる優しい指も、嘘のない笑顔も、リオウは知らない。  自分は−ほんの少しだけそれを、垣間見《カしまみ》たのかもしれなかった。  そしてそれは、リオウの心に、今まで知ることのなかった、温かい火を灯《しーし》した。  醗[胤門日日日日日日日工柑 「−経仮、どう思う?」  劉輝はついと、したためたばかりの書翰《しよかん》を経仮に手渡《てわた》した。  縁故はきっとそれに目を落とし−表情一つ変えることなく、領《うなず》いた。 「ええ、いいと思います。このくらいの処置は必要でしょう」  劉輝は|妙《みょう》に暗い顔をして、バクリと机案につっぷした。 「……何だか余は、秀麗に嫌《き・り》われることしかしてない気がする……」 「大丈夫ですよ。このくらいで嫌うような娘じゃないでしょう」  経仮はちょっと躊躇《ためら》ったが、わしわしと劉輝の髪《かみ》をかき撫《な》でた。 「無事に帰ってきて、よかったですね。よく|我慢《が まん》して待ちました」 「……うん……それだけでいい」  劉輝は小さく|呟《つぶや》いた。泣くのを堪《こら》えるような、安堵《あんご》の声だった。 「……それだけで、いい……」  長い長い、ただ耐《た》えるだけの劉輝の口々を知っていた絳攸は、もう一度頭をなでてやった。          翁歯車命魯  茶州虎林郡の病収束の報は、茶家の|騒動《そうどう》の時と同じ−いや、それ以上の波紋《はも人》を、朝廷《ちょうてい》水面下に投げかけた。  前回は、能吏《のうり》・鄭悠舜と浪燕青の功績がいちばん大きかったと言える。  けれど、今回は−。  特に、紅秀麗が生きて戻《もど》ってくるとは思っていなかった一派は焦《あせ》った。  水面下で多くの情報が交《か》わされ、そして、朝議の場にもたらされる。 「調べによると、杜・紅両州牧は、ともに州牧の権限を返上して現地に赴《おもむ》いたとのこと。特に紅州牧の二度にわたる権限|放棄《ほうき》は、州牧という地位のもつ責務の重さがまるでわかっていないことの証《あかし》でありましょう。主上の言に逆らったことといい、朝廷でのあの|傍若《ぼうじゃく》無人《ぶ じん》な振る舞《ま》いといい−他《ほか》にも、散々無理難題を押し通し、全商連に多額の借金をするなど、州牧にあるまじき無責任かつ軽挙妄動《けいさよもうどう》を多くとっております。断じて見過ごすわけにほ参りません」  多くの賛同が次々とあがる。  絳攸はざっと見回し、顔ぶれと様子を確かめる。  吏部《りぶ》・戸《こ》部両尚書が黙《しトやつしよだま》っているのをはじめとして、反対を口にする者はいない。   無言を通す者は、ただ一様に王に視線を向け、その裁断を待っていた。   ひとしきり、朝の鶏《にわとり》のような官吏《かんり》たちの鳴声を聞いたあと、劉輝は頷いた。 「−1わかった」   落ち着いた王の声に、いっせいに官吏たちの目が向けられる。 「では、杜影月及《およ》び紅秀麗は、即刻《そつこく》茶州州牧位を解任、かわりに現黒州州牧擢輪《ゆ》を着任とする。窯州州牧の後任は春の除目《じもく》まで留保、職務は現黒州州声に兼《しゅlういんか》ねさせることにする。樺瑞は即刻茶州に飛び、早急なる案件の引き継《つ》ぎと茶州の安定を。杜影月に関しては官位降格、また擢瑞を後見とし、彼に師事し、補佐《はさ》として研磨《けんさ人》を積んでもらう」  ぎょっと、誰《だれ》かが息を呑《の》む音がした。    −名大官・擢瑞の後見。   中央と地方を飛び回り、民《たみ》のために尽力《じんりょく》しっづけた、かの擢瑞の後継者《こうけいしゃ》がついに選ばれた。   降格に見えるが、それほ郵悠舜同様、未来の|龍《りゅう》を、静かに遠き地で育てさせるようなもの。 「……で、では、紅官吏の処分は?」 「引き継ぎをもって、早急なる貴陽|帰還《き かん》を命じる。官位はすべて剥奪《はくだつ》、当分登殿《とうでん》を禁じ、謹慎《きんしん》処分とし、次の官位が決まるまでは冗官《じょうかん》となす」  水を打ったようにその場が静まり返った。  ……冗官とは、官吏とは名ばかりの、何の職務もない者をさす。よく金で官位を買って、何もせずにたむろしている者たちだ。一度冗官に落とされたなら、二度と出世の栄達は望めぬと  さえ言われるふきだまりだ。まかり|間違《ま ちが》っても厳しい国講をくぐりぬけて及第《きゅうだい》した者が放《ほう》り込まれるなどありえない。  女官吏の増長甚だ《はなは》しいと憤憑《ふんまん》やるかたなかったものたちも、想像以上の厳しい処断に言葉もなかった。王や大官の多くが、あの女官吏を品層《ひいき》していると思っていただけに、まるで口を差し|挟《はさ》む|隙《すき》もない|冷徹《れいてつ》な措置《そら》に、誰もが耳を疑った。 「二人の処分はこのとおりに。また、春の除目にあわせて現茶州州声《しゅういん》部悠舜も朝廷に呼び戻し、空席の尚書《Lようしょ》省尚書令に叙《‥しょ》す」|一拍《いっぱく》ののち、ざわめきに大きく室《へや》が揺れた。  紅黎深と黄奇人《こうさじん》が、|僅《わず》かに視線を上げた。   工部尚書管飛翔《か人けしょう》はにやりと笑った。 「……ふーん、ぼっちゃん王様も動きはじめてきたじゃわーか?」 「いいんじゃないですか。茶州での一件が帳消しになるわけじゃありませんし。しばらく休めってことですよ。羨《うらや》ましい。ま、這《は》い上がれなかったらそこまででしょう。く……全部香《こう》が酒にかき消されているじゃありませんかこの酔《よ》いどれ尚書」欧陽侍郎《おうようじろう》が自分の袖《そで》をふんふんかいだ。          魯歯髄歯車   少しふくれた三日月の下を、香鈴は歩いていた。   手を、繋《つな》いで。 「寒くありませんかフ」  振り返るその|微笑《ほほえ》みは、影月のもの。   |眠《ねむ》り薬が切れかけた頃《ころ》、誰かに優しく揺り動かされ、泣きながら目覚めた香鈴は、のぞきこんでくるその人が信じられなかった。 「……何が、あったんですの?」  影月も香鈴も、しばらく病人の看病や、石柴村の復興で忙《いそが》しくて、その話には触《ふ》れなかった。   けれど、いまなら、訊ける気がした。   影月は陸毛《まつげ》を伏《ふ》せ、小さく苦笑いした。 「……陽月が、性懲《し上三/こ》りもなく、また僕を助けてくれたんですよ」  目覚めたとき、何が起こったか、すべて影月は理解していた。   何もかも、暢月の中で見ていた。   命の、最後の雫が《しずノ、》落ちて。   溶《と》けて消える寸前、陽月がつかんだ。涙《なみだ》よりも小さく小さくなってしまった影月の欠片《かけら》。  もう、何もできないその欠片を、真綿でくるむように包み込んで、陽月は守った。   守られた影月にもわかるくらい、それはただの悪あがきだった。  たとえ守っても、何にもなりはしない。  もう二度と『影月』は浮《う》かび上がれない。いや、浮かび上がった瞬間に弾《しゅ人かんはじ》けて消える。  影月の欠片は、ただ、陽月に守られて、|眠《ねむ》るように、ゆらゆらとたゆたうだけ。  陽月にも、もうどうにもできはしない。  ……そう、思っていたのに。 「……香鈴さん、僕、もうお酒飲めますよ」 「え? L影月は、どこか泣いているような顔で、笑った。 「暢月はぐっすり眠ってしまったので、……もう、大好きなお酒でも起きないんです」  とうに死んだ体を、生かして動かせられるのは、暢月がいてくれたから。  けれど陽月と|一緒《いっしょ》にいるだけで、弱い影月の命はどんどん流れていく。  ……だから陽月は、眠りについた。深い深い、眠りに。 『……二度あることは三度あるっていうだろ。三度目の気まぐれだ』  真綿の守りの向こうから響《ひげ》く、|憮然《ぶ ぜん》とした声を、影月は覚えている。  ふわりと、誰かの掌に載《てのひらの》せられた気配がして。小鳥の雛《ひな》をつまむように、小さな影月の欠片は、陽月に守られたままそっと『上』に持ち上げられていった。  反対に、陽月が沈《しず》んでいくのがわかった。影月の手の届かない、深淵《し人えん》の水底《みなぞこ》に。  すべてを封《・ケう》じて、眠りについた。ただ影月の『欠片』を消さないために。  ……そして、影月は目覚め、視界に三日月を見る。  もう二度と陽月に会えないことを知って。  仰向《あおむ》きながら、鴫咽《おえつ》をもらした。 「……そう、ですの」 「はい」  香鈴は何も言えなかった。  うつむいて、しばらく静かな夜を歩いた。 「……お医者に、なるんですの?」 「いいえ。やっぱり、官吏のはうが色々なことができますから。別に官吏のままでも、お医者の勉強はできますし。優《すぐ》れたお医者さんは他《ほか》にたくさんいますからね。燕青さんも武官ぽい文官ですし、僕は医官ぽい文官を目指すことにしますー」王都から飛んできた選《え》り抜《ぬ》きの医者たちは、半数近くが茶州に残って、立ち後れている医術の普及《・舟きゅう》につとめると言った。学舎設立の際は絶対に飛んでくる、とも。 「できたら、輝州牧みたいに、あちこち地方を飛び回って、人々と|距離《きょり 》の近い場所で、力を《つ》尽くせる地方官になりたいなぁと」 「そう……ですか」  香鈴はうつむいた。  いつだって、影月の視界に香鈴はいない。 (す、好きだって、おっしゃったくせに)  まるで、そんなことなどなかったかのように落ち着いている影月に、泣きそうになる。  堂主《どうし紬》様と自分とどちらが好きと訊けば、この唐変木《とうへ人ぼく》は絶対堂主様と答えるに違《ちが》いない。 (そ、それは、ど、堂主様には、か、かないませんけれど……)  やっぱり自分は、男運がとことん悪いのかもしれないと香鈴は思った。  それは、香鈴だって、言おう言おうと思って、まだ言えていない言葉が−。 「だから香鈴さん、その……僕がどこにいても、ずっと一緒にいてくれませんか?」 「……ああ、そうですの。……。……は?」  香鈴の黒目がちの目がまんまるにひらいた。 「……いま、なんとおっしゃいましたの」  聞き返されて、影月は照れた。けれどハッキリと言う。 「えーと、その、よければ、僕のそばに、ずっと一緒にいてほしいな、と……」  香鈴は頭が混乱して、なんと言っていいかわからなくなった。 「わっ、わたくし、年下のかたは、興味ございませんの!」  |叫《さけ》んで、死にたくなった。−ち、ちが……な、なんてことを口走ってー! (わっ、わたくし、はら、言うの、手遅《ておく》れになる前に——1ほら!)   影月は考えこむように顎に手を当てた。告白を撤回《てつかい》しようと思っているに違いない。   は、早く、早くいわないとー。 「じゃあ、今日から僕は十六ということにします。ふたつみっつくらい、別に−」 「あ、あなたが好きなんですの!」   影月の言葉にかぶるように叫んでしまった。   影月の|驚《おどろ》いたような顔に気づくと同時に、ハッと口元をおさえる。香鈴はみるみる耳まで真っ赤になった。顔を見てられなくて、うつむいたら上げられなくなった。   ややあって、影月の少し嬉《うれ》しそうな声が落ちてきた。 「……はい、僕も好きです」   繋いだ手に、さらに力がこもった。 「じゃあ、一緒にいましょう。−これからずっと」   いつまで、とは影月は言わなかった。   陽月は、今度の期限は告げなかった。   また明日かもしれないし、十日後かもしれないし、十年後かもしれない。   けれど、影月はもう考えないことにした。   それは、本当は誰《だれ》もが同じことだったから。   だからこそ、明日の約束に心を込める。          歯車.磋車庫  そして、もう冬も終わりという頃《ころ》。  飛んできた曜官吏《かんり》に、すべての引き継《つ》ぎを終えて、秀麗は兢埴城を出発しょうとしていた。  ちょろちょろしていた龍蓮も、またいつのまにかどこぞへ消えていた。  めまぐるしく過ぎた茶州でのHを思い返し、秀麗は|目眩《め まい》を感じた。 「はー……。なんだか、饗l畠《ごとう》のような一年だったわ……」 「ひどいですわ!」  香鈴は泣きながらいまだに|怒《おこ》っていた。 「冗官《じょうかん》て、冗官って……な、な、なんですの! 主上を見損《ふ.・そこ》ないましたわ!!」 「はいはい、ありがとう香鈴。|大丈夫《だいじょうぶ》だから泣かないの」                                                             ごー  秀麗は香鈴をあやすように抱《J.》きしめた。  実際、報《しらせ》を聞いたときも別に驚きも怒りもしなかった。 「香鈴の知らないとこで、かなり無茶苦茶やっちゃったから、妥当《だとう》だと思うわよ」  秀麗は影月の姿に、ちょっと笑ってみせた。 「……秀麗さん、何かあったら、いつでも呼んでください。飛んで行きます」  そう、国試からずっと傍《そほ》にいてくれた影月は、これからはいなくなる。  秀麗という存在を無条件で受け入れてくれた影月は、朝廷《ちょYうてい》の中で秀麗の心の拠《よ》り所だった。  これからは、また、一人で、はじめから。 「本当に、たくさん、ありがとう影月くん」 「秀麗さん?呼ばなくても、香鈴さんと一緒に飛んでいきますからー」  もちろんですわ! と、香鈴が叫ぶ。……秀麗は本当に嬉しかった。 「大歓迎《だいかんげい》。たくさんご飯つくって、待ってるわ」  そのとき、燕青と静蘭がやってきた。 「いやー、参った。ダメだこりゃ。若才が引きこもって今日は仕事になんわーよ」 「著才さんが? どうして?」 「姫さんが帰っちゃうからだろ。もうなんか、長い悪い夢見てるみてー……」  秀麗は最後まで、なぜに若才がそんなにおそれられるのかわからなかった。 「また、さよならね、燕青」 「だな。元気でな。ちゃんとメシ食ってよく|眠《ねむ》るんだぞ」 「……ほんっとうに、しみじみっていう言葉と稼《えん》がないわよね、燕青……」  茶州官である燕青とは、下手したらもう二度と会えないかもしれないのに、まるで明日も州府で会えるかのような口調である。  けれど、燕青らしいといえば燕青らしかった。 「なー姫さん、俺さ、勉強|頑張《がんば 》るからな。いつになるかわかんわーけど、いつかさー」 「うん?」  燕青は言いかけた言葉を変えた。  実際、本気でいつになるかわからなかった。絶対柴彰には先を越《こ》されるだろう。  たとえ十年後になっても、二十年後になっても。 「また、いつか会おうな」  会えたらいいな、と言わなかった燕青に、秀鰯は胸が詰《つ》まった。  いつも秀麗を助けてくれた、あの笑顔《えがお》も、これからなくなる。 「燕青……たくさん、たくさん助けてくれて、ありがとう」  燕青はくしゃくしゃと秀麗の髪《かみ》をかき撫《な》でて、笑った。 「がんばれ」 「……うん……!」 「俺も頑張る。いろいろと」  静蘭は、燕青だけに聞こえるように脅《おご》しをかけた。 「お前、十年とか二十年とか、まかり|間違《ま ちが》ってもかかるなよ」 「…………さすがにこればっかは即答《すて′1レ」ーリ》できねーんだけど」 「不正をしてでも通れ! 詩文の採点官に金色の饅頭《まんじゆう》送っとけ」 「わぁお前そうゆうこというか。お師匠《ししよう》の借金で首が回らねーこの俺に」 「…………悪い、私が間違っていた」  |微妙《びみょう》にたしなめるツボが違っている。  秀麗はあまり多くない荷馬車を見た。  一年にも満たない州牧生活。  見上げれば、冬の終わりの実《そら》の色は、少し|優《やさ》しく。  秀寮は深呼吸した。朝と呼ぶにはだいぶ早いけれど。 「……さて、じゃ、行きましょうか、静蘭」  夜明けで、静まり返ったなか、馬車は琥城を出た。  カラカラという車輪の音が、すこしゅるくなった。 「……お嬢様、お客様です」 「お客様? こんな時間にこんなとこに誰が?」  窓から顔を出しかけたときー。 「秀麗お姉ちゃ−ん!」  その声に、秀麗はぎょっとした。この、声は。  馬車が完全に止まるのも待たず、秀麗は飛び降りた。  前方に、黒い人だかりが見えた。  そのなかを、まっすぐに秀麗に向かって駆《か》けてくる少女がいた。 「シュウラン!?」 「……どうしても、皆《みな》、行くといって、聞かなかったのですよ」   シュウランの後ろから、丙太守が馬を駆って迫ってきた。 「浪州労《しゅういん》から、出立《しゅつたつ》が早まったと聞いて、とるものもとりあえずきましたよ」  息せき切って駆けてきたシュウランは、秀麗の腕《うで》をつかんだ。 「秀麗お姉ちゃん……きてくれて、ありがとう」  荒《あ・り》い息をつきながら、大きな瞳《ひとみ》で秀麗を見上げた。 「きてくれて、ありがとう。石柴村に——1虎林にー茶州に。きてくれて……助けてくれて、ありがとう。私、嬉しかった。本当に本当に、嬉しかったの」  少し後ろでぐずぐずと立ち止まった男たちを、女たちが蹴《鼻ノ》っ飛ばしている光景が見える。 「|馬鹿《ばか》だね、いっちまうだろ。早く謝っておおき!」という声も小さく聞こえてきた。   シュウランは秀麗の袖《そで》を引っ張った。 「ね、聞いて。あたしね、決めたことがあるの。なりたいものができたの」 「あ、わかった、お医者ね。当たり」 「ううん、あたし、官吏《かんり》になる」  秀麗は、……ゆっくりと、目を見開いた。 「……え?」 「あたし、官吏になる。秀麗お姉ちゃんが助けにきてくれたみたいに、今度はあたしが官吏になって誰かを助けに行く。たくさんたくさん勉強するわ。決めたの。いつか、いつか絶対!  あたし、お姉ちゃんみたいな官吏になるわ」  秀麗の、睫毛《まつげ》が、ゆっくりと震えた。 「あのね、丙のおじいちゃんもね、お母さんもね、賛成してくれたの。村のみんなもね、お金ちょっとずつ出してくれるって。あトこ、丙のおじいちゃんがお勉強を見てくれるっていうから、あたし、これからすっごいたくさん頑張る。待っててね。それまで絶対、待っててね」  ……こらえ、られなかった。    ト∵�バ一−  涙があふれた。  あふれて、止まらなかった。  この茶州で、自分は、何かが、残せたのだろうか。                                                                                                                               −ノ  ただ、助けられてばかりで。無我夢中で《‘》突っ走っただけで。  この少女が、こんな言葉をいってくれるだけのことが、できたのだろうか。 「ど、どうして泣いてるの、秀麗お姉ちゃん」 「……ううん……ありがとう、シュウラン」 「シュウランも、私も、心から本気ですよ、紅《ヽ》州《ヽ》牧《ヽ》」  もう秀麗が州牧ではないことを知っていても、丙太守はその呼び方をやめなかった。  丙太守は、シュウランの頭を撫でた。 「私がこの子の後見になりましょう。賢《カしこ》い子です。必ずや状元及第《じょうげんきゅうだい》させてみせましょう。準備が整ったときは、文《ふみ》を書きますゆえ。その際は、よろしく女人国試の根回しをお願いいたします。それまで、朝廷で、どうかあなたらしく、頑張られませ」秀麗という例外が朝廷にいる限り、女人国試の可能性は残る。  不可能ではない。  秀麗は涙をぬぐった。 「……じゃ、シュウラソがくるまで、絶対頑張らなくちゃならなくなったわね」 「そうよ秀麗お姉ちゃん! 絶対、待っててね」 「そうだよ、お頑張り!」  虎林郡からきたおばちゃんが、もじもじと動こうとしない目癖《だんな》に業l《ごう》を煮《に》やし、|叫《さけ》んだ。 「四の五の言う男どもは尻《しり》蹴っ飛ばしてやんな!」 「私の子供も、助けてくれてありがとうございました!」 「あ、あのときは、勝手なこといって悪かったーあ!」  まるで山彦《や凰げこ》のように次々と声が飛んでくる。  静蘭があることに気づいて、秀麗に声をかけた。 「……お嬢様、あちらを」  城埴城を見ると、燕青と影月をはじめとする全州官がうちそろい、それぞれ最上級の官服に身を包み、土が付くのも構わず、州牧に対する正式な脆拝《ヽ.−はい》の礼をとった。  見れば、克洵や春姫、柴彰たちもいた。擢州牧と悠舜も最前列で微笑んでいる。  燕青は顔を上げると、にかっと笑った。 「な? すっげー愛されてるだろ? 自信もてたろ? じゃな、姫さん」  秀魔は笑った。 「! ありがとう。さよなら」  そして、茶州の地をあとにした。          噛   �碗lヂ  �やがて樺州牧の指揮と仝商連の資金援助《えんじょ》のもと、茶州に研究機関を兼《か》ね備える学舎が設立される。のちに菊花君子の誉《はよれ》を受け継《つ》ぎ、長く茶州を安定に導くことになる茶克陶の厚い庇《け》護《ご》のもと、茶州は以後、学究の都として大きな発展をとげる。そして国中から有能な学者・技術者が集《つど》い、各分野で常に最高水準の研顕《けんさん》を積んだ結果、劉輝治世において、彩雲国の文化・技術は|爆発《ばくはつ》的な発展を遂《と》げることになる。  まず先駆《ききが》けたのが医術の向上であり、この時代を境に疫病《えきげよう》・奇病での大量の死者が激減した。  その根幹を支えたのは『華眞の書』と切開術、柴榛によって発見された石柴村の豊富な斡《くろむ》鉱石と、|特殊《とくしゅ》小刀製造技術をはじめとする様々な医術工具だった。 『自分たちの命を救ってくれた鋼を、命を奪う武器にはしないnlー.   かつて奇病《きげよう》に悩《なや》まされた石集村の採掘《きいくつ》者たちは、どれほど金を積まれても武器商人との取引に応じることなく、医術工員に重点的に鉱石供給しっづけ、その発展の一助となった。   上治四年−史上例のない、茶州の二人の州牧は一年にも満たなかった。   けれど、後世の史家にとっては、見過ごすことのできない一年になる。  浪燕青、荘静蘭、杜影月、鄭悠舜、茶克拘、柴姉弟……のちの史書に綺羅星《ヽ、∴l一fし》のごとく名を連ねる彼らが出会い、過ごしたこの一年足らずに、彼らの原点を置く史家は多い。   そして何より、伝説の女官吏・紅秀鹿が、最初に足跡《そくせき》を残した地として。          偉容患歯¢   邵可は|蝋燭《ろうそく》の火が消えたことにも気づかず、府庫の暗闇《くらやみ》のなかで眉根《まゆね》を寄せていた。   脳裏に、二十年前と変わらぬ姿のままの、|漆黒《しっこく》の双膵《そうぼう》と銀つむぎの髪の男が過ぎる。   炎が灯《はlのlおとも》る。邵可は思考の淵《ふち》から顔を上げ、灯《あか》りをつけてくれた弟を見た。 「……兄上、その顔はやめてください」   すぐに�黒狼″からいつもの表情に戻《もど》った兄に、黎深はぶすっとそっぽを向いた。 「兄上に.その顔をさせるくらいなら、繚家なんか私が塵《ちnリ》も残さず抹消《まつしょう》してー」 「ダメ。繚璃桜は私の相手だ。それにあの野郎《やろう》の性格を思えば、むしろ気になるのは�」  璃桜の姉。邵可が″黒狼″として標家に相対していたときも、見え隠《かく》れしていた女。苦から弟の璃桜に異常なほど愛着していた。そして今、璃桜は秀麗を見つけ、あの女もそれを知った。 「……寄る年波でとっくにポックリくたばってると思ってたのに……相変わらずしぶといな」  黎深は扇を《おうぎ》落としかけた。しかしいかな邵可もこの世であの恋仇《こいがたさ》にだけは優しくなれない。   あのむかつく男とはいろいろいろいろいろいろいろいろあったのだ。  宇・…何にせよ、朝廷《ちょうてい》も、春になったらまた動きそうだね」  あとがき   本当に|優《やさ》しい人は誰《だれ》よりも強くて|格好《かっこう》いいと、たまに強烈に思うことがあります。   ーさて、影月編、これにて完結です。今回は影月と秀麗がW主人公《ダプルキヤスト》、陰の主役は燕青といったところでしょうか(表紙バッチリ)。特に影月には私も色々と|驚《おどろ》かされました。今まで控《ひか》え目に多くを語らなかった影月ですが、……いやはや。鴛掬といい、香鈴は彩雲国一良い男を見る目がありましたね……。影月編最後の一冊、終幕のその先は、どうか皆陳《みなさま》の目で。   作中の奇病、潜伏《せんふく》期間など色々変えておりますが、モデルはあります。日本でも確患《りかん》します。  皆様、いかに美味《おい》しそうでも、迂闊《うかつ》に野生のものを口に入れたらいかんですよ…告‖  思えば去年はボタ餅《もち》落ちまくりの一年でした。|漫画《まんが 》化、CDドラマ化、最後の奇跡がアニメ化です。……一体、何がどうなっているのやら……(怖《こわ》い…汗)。NHK様に心からお礼申し上げると共に、映像に関して門外漢の私は、一視聴者《しちょうしゃ》として楽しみに春を待ちたいと思います。  最後、風邪《かぜ》に膵臆《もうろう》とする私を励《. デ》まして下さった担当様、どんぴしゃりの象|曙《あけぼの》らしい表紙で気力を下さった由羅カイリ様、休Rを狙《ねら》って電話をかけた迷惑《めいわ! 、》な姪《わたし》に快く初歩の医学について教えて下さった敬愛なる叔父《おじ》様叔母《おば》様、そして家族と友人、読者様へ心からの感謝を込《こ》めて。                                 雪乃紗衣